14 アニー・サリバン (1866年~1936年)



~障がい者差別を乗り越えて三重苦の少女に生涯をかけたアメリカの教師~



 「三重苦の少女」 とは誰のことでしょうか。

 ヘレン・ケラーという有名な女性です。



 目が見えない、耳が聞こえない、しゃべれないという、絶望的な3つの障がいが一度に来たんですね。

 普通に考えれば、社会生活ができるとはとうてい思えません。



 ところができるようになったのです。



 「奇跡の人」 「三重苦の聖女」

 などとよばれ、世界中で話題になりました。



 なぜできたのでしょうか。



 結論を先に言えば、 「アニー・サリバン」 がいたからです。



 アニーの目は小さいころは全く見えませんでした。

 父も母もなく唯一の弟も障がい者でした。



 弟は生まれつき足が悪くて、5歳のとき病気でなくなりました。

 お金持ちの善意の寄付で、7回手術してやっと見えるようになったのです。



 彼女はボストン・パーキンズ盲学校を優秀な成績で卒業しました。

 卒業のとき校長に呼ばれ、ヘレン・ケラーの住みこみの家庭教師という仕事を依頼されたのです。



 約半年間の勉強期間を終えて、次の年1887年の3月、アニーはヘレンの住むタスカンビアに旅立ちました。



 初対面のときは20歳、ヘレンは6歳でした。

 このときヘレンは、いつも手で食事をしている少女でした。



 戦闘開始です。



 最初の壁はヘレンの父親でした。

 アニーは家庭教師として、信念をもってきびしく教育に当たろうとしましたが、6歳のヘレンは暴れます。



 父親は

 「この子がかわいそうで、今までどんなことをしてもしかったことがない」



 「ミス・サリバン、ヘレンに勝手にさせてやって下さい」

 「君は雇い主の私にさからうのか」



 「明日の汽車でボストンへ帰ってもらおう」

 などと、さんざんの言葉を浴びせます。



 しかし、アニーは一歩も引きません。



 母親は理解してくれました。

 「いいえ、サリバン先生は正しいことをなさっているのです。



 母親の私がやらなければいけなかったことを、私のかわりに」



 1887年、出会って1カ月後、ヘレンは指文字で言葉を覚え始めました。

 抽象的な言葉もどんどん身につけて行きました。




 1890年、9歳のヘレンは、ホレース・マン学校のサラ・フラー校長について発声訓練をはじめ、2か月後話せるようになりました。




 1899年、ハーバード大学女子部ラドクリフ大学に合格しました。

 ヘレンの猛勉強も大変でしたが、アニーはもっと大変でした。




 教科書は少なく、授業の内容を正しく伝えるために、ヘレンの倍も勉強しなければならなかったからです。




 さらに、次の壁は夫です。




 1905年、アニーは結婚し、ヘレンと夫との3人の共同生活が始まりましたが、結局離婚しました。




 「僕はヘレンの分身と結婚したわけじゃない。

 さようなら、アニー」



 という別れの言葉を残し、夫は去って行きました。




 アニーはヘレンとともに生きることをライフワークとしたのでしょうか、たとえ夫が去っても、ヘレンと生きることだけは譲りませんでした。



 1921年からは、アメリカ盲人協会の依頼でヘレンの講演活動が始まり、31年には世界盲人会議が始まりました。


 「人間にとって幸せとは、自分が世の中に役に立っているとか、誰かに必要とされていると感じることなのです」




 「ただかわいそうだといって、お金や物を与えるだけでは何にもなりません」


 ヘレンはこう訴えました。




 これは、同時にアニーの言葉でもあるのです。



 
 僕は障がいを持たない人が、障がいを持つ人々に対して、ただ 「かわいそう」 ということでお金や物を与えるだけならば、上から目線で人を見下してしまう危険があると思います。




 かつての僕自身もそうでした。




 自分自身の反省を含めて、こういう 「見下した」 意識で障がいを持つ人々に接するならば 「同情という名の差別」 にあたると思います。




 このことは障がい者差別だけでなく、他のあらゆる差別にも共通することだと僕は考えています。


 なぜアニーとヘレンはさまざまな障がい者差別と不自由を乗り越えて、納得できる人生を送ることができたのでしょうか。




 それは、生きる課題を共有することができたからだと思います。




 ヘレンの課題はアニーの課題でもあったのです。




 アニーの生き方に深い共感を覚えるのは、きっと僕だけではないと思いますがいかがでしょうか。


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13 ジェームス・カントリー (1896年頃)




~民族を超えて中国の革命運動を支えたイギリスの医師~




 「中国革命の父」 として、今でも多くの中国人から尊敬されている孫文。

 中学校や高校の教科書でもおなじみのあまりにも有名な人物です。



 その孫文になくてはならないイギリス人がいました。

 カントリー博士ことジェームス・カントリーです。



 彼は香港 (ホンコン) 大学の前身である西医書院の外科の主任教授でした。

 実は孫文は医学の勉強をしていたころがあり、ここでカントリーに習っています。


 
 つまりカントリーの教え子の一人が孫文なのです。

 宣教師でもあり、イギリスの医学博士でもあった彼は、孫文の革命運動に自分のできるすべてを注ごうと決意していました。



 趣味は写真で、香港で営業されていた、日本人の梅屋庄吉の写真館によく出入りしていました。

 孫文と梅屋庄吉を引き合わせたのはカントリーです。



 庄吉は孫文が熱く語る三民主義に傾倒し、革命の資金援助を約束します。

 生涯で1兆円を超える大金になりましたが、庄吉は何の見返りも要求しなかったといいます。



 「あなたは兵を挙げてください、私は財を挙げて支援します」



 これが庄吉の熱い言葉でした。



 ちなみに孫文の三民主義とは 「民族の独立」 「民権の伸長」 「民生の安定」 の3つを一言で言い表したものです。



 当時の中国は、漢民族から見ると異民族の満州民族に中国全体を支配されていました。

 さまざまな差別により漢民族の人権は制限され、数々の戦争に敗れました。



 国民には重税がかけられ、生活は貧困で不安定なものになっていました。

 孫文は清王朝を倒して再び漢民族の国をつくり、基本的人権が尊重される、自由で平等な中国をつくろうとしていたのです。



 カントリーは、若い孫文をイギリスに招いています。



 革命運動を始めて間もないころ、清の役人に追われる身分となった孫文は、日本やハワイに逃れたあと、カントリーのいるロンドンに渡ったのです。



 カントリーは下宿先を紹介したりして、あれこれと面倒を見ましたが、清の役人は孫文をつかまえて清国公使館に監禁してしまいます。



 イギリス政府に黙って、孫文を中国に送り返そうという計画を立てていました。


 本国に送り返されれば、待っているのは残酷な処刑です。


 
 孫文は命がかかった大きなピンチに立たされたのです。



 この時、教え子のために敢然と立ち上がったのがカントリーです。

 彼はイギリスで清国が政治犯を逮捕することは不法である、として外務省に訴えたのです。



 さらに新聞社にも連絡しました。

 新聞はこのことを大きく取り上げ、国中に訴えたのです。



 カントリーの闘いによって清国公使館を糾弾 (きゅうだん) する世論が作られ、孫文の監禁は解かれたのでした。



 僕も教師なので教え子はたくさんいます。

 カントリーのこの行動にはとても共感できるものがあります。



 カントリーの行動力によって命拾いした孫文は、その後中国で革命を起こし、アジアで最初の共和国を建設することになったことはご存知の方も多いでしょう。



 いわゆる 「中華民国」 ですね。



 このイギリスのロンドンで、カントリーの勇気ある行動がなければ、中国の歴史は変わっていた可能性が極めて高いと考えられます。



 少なくとも、孫文は中国に護送されて処刑され、歴史の闇の中に葬られていったことでしょう。


 ジェームス・カントリーも梅屋庄吉も、日本の歴史の教科書には全く登場しない人物です。



 しかし、世界史上有名な辛亥革命(しんがいかくめい)の張本人である孫文にとっては、なくてはならない人物だったのです。



 世界の民族差別を乗り越えた基本的人権の視点を重視すれば、僕は彼らにもっと光が当てられてもよいのではないかと考えています。
12 ジェロニモ (1829年~1909年)




~開拓という名の侵略と戦い続けたアメリカの先住民~




 「自由の国」 アメリカ合衆国。


 イギリス本国からの差別を乗り越えて、独立を達成しました。



 現在のアメリカの発展は目を見張るものがあり、世界のリーダー的な国家であることは誰もが認めるところでしょう。

 僕たち日本の国民から見ても、なくてはならない同胞の一つです。



 しかし、彼らのいう自由とは、現実には白人にとっての自由であり、ネイティブ・アメリカンに対しては、過酷な人権侵害を続けてきていることも事実です。



 1830年、アメリカ政府は 「インディアン強制移住法」 を制定しました。

 この法律により、インディアンの各部族を強制的にミシシッピ川の西のかなたへ移住させたのです。



 白人たちだけに都合のよい法律であることは明白ですね。



 豊かな土地を白人が占有し、西のかなたのやせた土地に、先住民のインディアンを追いやるという、典型的な人種差別であり民族差別です。



 政府はあくまでもインディアンの 「基本的人権」 を認めず、力ずくで押さえつけようとしました。

 この差別政策に先住民たちが黙っているはずはありません。



 アメリカはもともと彼らが生まれ育ったところです。



 開拓という言葉は、白人たちの政策を正当化するのに都合のよい言葉ですね。

 開拓という名の侵略に異議を唱え、抵抗するのは当然のことでしょう。



 「白人たちはわれわれの土地に入り込み、だいじな野牛を狩りつくした。

 その上豊かな土地を取り上げ、われわれをやせた土地におし込めようとする。



 白人はわれわれの敵だ」

 というジェロニモの言葉は、彼個人の言葉ではなく、「先住民の総意」 と受けとるべきでしょう。



 特にシャイアン族、スー族、アパッチ族などの部族は、アメリカ政府に対して激しく抵抗しました。



 中でも、アパッチ族の最後の族長であるジェロニモは、10年間にわたり白人と戦い続けたことで有名です。

 その戦いぶりは勇敢で、白人からも恐れられていました。



 まさに 「自由のための戦い」 ですね。

 かつてアメリカの白人たちが、イギリスと戦ったのもまた 「自由のための戦い」 でした。




 1860年代に、アメリカ政府は、先住民インディアンとの戦いに多額の費用をかけ、10年間に200回にもおよぶ戦いを行いました。



 しかし、武力の差は歴然としています。



 1886年、先住民のリーダーとして立ち上がったジェロニモも、ついに敗れて捕えられました。

 それからは15年以上にわたり幽閉され、行動を規制されています。




 彼の最期は酒に酔って小川に落ちてしまい、それがもとで肺炎にかかり病死してしまいました。

 80歳になっていましたが、あっけない最期でした。




 インディアンには国家というものがなく、部族単位で生活していたことも侵略されやすい原因の1つだったことでしょう。

 目を覆うような虐殺も行われていました。




 現在は正面からの戦いは終わりましたが、インディアン居留地の存在をはじめ、人権侵害はなくなっていません。



 アメリカの大きな課題の1つだと思います。

 敗れはしましたが、自由のために命をかけて戦ったジェロニモの生き方に共感できるのは僕だけではないと思います。



 ところで僕たちの国、日本はどうでしょうか。



 僕にはアメリカの民族差別が、とても他人事とは思えません。


 アイヌ民族や沖縄、在日韓国・朝鮮人の人々に対して、日本は歴史上何をしてきたのでしょうか。



 白人たちの民族差別とそっくりな民族差別を、日本もやってきていることはまぎれもない事実です。




 間違いなくいえることは、民族や文化が違っても同じ 「人間」 であるということです。
11 ナイチンゲール (1820年~1910年)




~職業差別を乗り越えて看護にかけたイギリスの貴婦人~




 「クリミアの天使」

 「ランプをもった貴婦人」



 などと呼ばれ、世界中の看護師のお手本とされるフローレンス・ナイチンゲール。



 戦争で敵味方関係なく看護にあたった、命を大切にする精神と実践は、大人だけでなく世界中の少年少女たちにも、現在まで語り継がれています。



 ロシアとトルコの戦いにイギリスとフランスが加担しておこった「クリミア戦争」での



 「看護師にとって負傷した兵隊さんは敵も味方もありません」



 という言葉は、僕も強烈な印象と共感を覚えます。

 それこそ小学生のころから絵本で知っていました。



 しかし、この有名なナイチンゲールと「職業差別」の関係については、意外と知られていないのではないでしょうか。



 彼女は職業差別を乗り越えて、この仕事に命をかけた女性だと僕は考えています。



 まず、彼女の出身はイギリスの貴族です。

 上流階級のお嬢様で、裕福な家庭で育ったので、何不自由なく成長することができました。



 ところが看護師を志すことを知ったとたん、家族からの猛反対にあいました。

 当時のイギリスでは、看護師の社会的地位がとても低かったのです。



 看護師は大酒飲みの女が売春と兼業していることも少なくなく、上流階級の子女にしてみれば口に出すのもはばかられる職業でした。



 ナイチンゲール24歳のときです。

 家族は腰を抜かさんばかりに仰天しました。



 母親は卒倒し、気つけ薬の世話になりました。

 姉は一週間も寝込んでしまうし、父親はショックで家に帰ってこなくなったそうです。



 まさに職業差別ですね。

 差別はする側が不幸になるという典型的な例だといえるでしょう。



 しかし、どんなに反対されてもナイチンゲールの決意は揺るがず、一途に看護の勉強と訓練を続け、看護師としての腕を磨きました。



 1853年、ついに努力が認められ、ロンドンの病院に看護師の監督として採用されました。

 33歳のときです。



 そしてその年、クリミア戦争が勃発したのです。



 彼女は自分から進んで陸軍大佐に手紙を書き、1854年、38人の看護師を連れて、ロンドン港から船で、トルコのスクタリ野戦病院へ向かったのです。



 想像をはるかに越えた劣悪な環境の中で、人間の命を守るという大きな成果が出たことは、世界中で知られている通りです。

 それまで10人に4人の割合で死亡者が出ていたこの野戦病院では、100人に2人にまで減少しました。



 このナイチンゲールの精神を理想として誕生したのが「赤十字社」ですね。



 1864年、アンリ・デュナンによって設立され、現在は活動の範囲を広げて災害の救援活動、病気の予防、献血なども行うようになりました。


 本部はスイスのジュネーブにおかれ、世界の国々が加盟しています。



 帰国後のナイチンゲールは、健康面で厳しい状況に直面します。

 無理がたたったのか、いつの間にか病気という病気にことごとく感染してしまっていたのです。



 まだ37歳という若さでしたが、帰国の翌年には看護師を引退せざるを得なくなりました。

 年々体は衰弱し、1869年には寝室から出られなくなりました。



 70歳を前に失明し、やがて耳も聞こえなくなり、最後の4年間は記憶すら失っていたそうです。

 90歳まで生きましたが、実に50年間もベッドの上での生活になりました。



 しかし病床にあっても、ナイチンゲールは残り時間を惜しむように仕事をこなし、病院や介護問題の解決に最後まで力を尽くしました。



 看護学校を設立し、著作活動も行いました。

 実に150点もの著作を発表しています。



 心底精いっぱい、自分の人生を自分らしく生きた人だったのですね。