10 マルクス (1818年~1883年)




~労働者の立場に立ち国境を越えて働く人を大切にしたドイツの経済学者~




 社会主義を唱えて世界にきわめて大きな影響を及ぼした人物ですね。



産業革命にともなう資本主義経済の発達により、少数の豊かな資本家と、多数の長時間労働と低賃金に苦しむ労働者という社会問題が発生しました。



マルクスは世界史を階級闘争の歴史とみなし、この現実の社会問題を科学的に分析して、資本主義社会にかわる新しい平等な社会の実現をめざしました。



 彼のこの考え方は 「科学的社会主義」 と呼ばれています。



 僕は社会主義者ではありませんが、マルクスの基本的な考え方には共感できる部分があると考えています。



 それは根本において、資本家という権力者ではなく、労働者の立場に立ち、平等という基本的人権の大切な部分を重視している点です。



 この考えを実践する社会主義国家とよばれる国々がたくさん生まれたのも事実です。

 代表例をあげればロシアの前身にあたるソ連、中国、北朝鮮などです。



  しかし、ソ連は近年崩壊し、中国ではノーベル平和賞を受賞する人物が監獄に閉じ込められ、北朝鮮では国外逃亡者が後を絶たない、ということが現実におこっています。



 これはいったいなぜなのでしょうか。



 マルクスは、ドイツ中西部の古都であるトリールで生まれたユダヤ人です。

 ユダヤ人が長い歴史の中で、さまざまな民族差別を受けてきていることは世界中でよく知られていますね。



  経済学者である彼は友人のエンゲルスとともに 「共産党宣言」 や 「資本論」 で労働者階級が、革命によって生産手段を社会化することが必要と訴えました。



 差別の解消につながることも考えられますが、資本主義社会を根本から否定する過激な思想ともとらえられ、賛否両論の意見が個人、社会、国家レベルまで議論されました。



 彼はベルリン大学を卒業した後に新聞の編集長をやっていました。

 個人的にはイェニーという名の女性と結婚します。



 マルクスより4歳年上の男爵の娘でした。

  トリール第一の美人と噂される女性で、周囲の反対を押し切って結婚したのですね。



  しかしこのイェニーは、生涯マルクスに寄り添い、その後の過酷な迫害や貧困、差別にも耐え続け、彼を献身的に支え続けています。



 お金には無縁でも満ち足りた二人の結婚生活は 「社会主義的ロマンスの鑑 (かがみ)」 とまでいわれました。



 イェニーは良き妻・母であるうえ、他人が幸せでいるようすを見ることで自分も満たされるという優しい人柄だったため、多くの仲間がマルクス家に集まりました。



 その人柄には多くの共感者が出たのですね。


 やがてマルクスは過激な思想家ととらえられて祖国を追われ、ロンドンに亡命し、どん底の生活を余儀なくされます。



 次にパリに移って雑誌の編集長になりますが、ここでも思想が危険視されてパリも追われることになります。



 そこで、当時表現が比較的自由とされた、ベルギーのブリュッセルに落ち着きました。

2歳年下のジャーナリストであるエンゲルスは、そんなマルクスを経済的にも援助しました。



 しかし、1848年、フランスで二月革命がおこると、マルクスは逮捕されてしまいます。

 彼の名がベルギー政府の危険人物一覧のトップに載っていたためです。



 僕は働く人々を大切にするマルクスの考え方は、形を変えながら世界のさまざまなところで生かされてきていると思います。



たとえばドイツのワイマール憲法の社会権、日本の労働三権もそうです。



「ワークライフバランス」 という考え方も、根本的には過酷な労働からの解放という、人間を大切にした大きな意識改革につながっているのではないでしょうか。



 「ブラック企業」 「ブラックバイト」 という言葉になって出てくるほど、昨今の多くの働く人々を取り巻く環境には、とても厳しいものがあります。



 僕と同じ職業をしている人の中で、若くして亡くなった人の中にも、あれは過労死ではないか、と考えられる知人が何人かいます。



 働くことは大切です。



 同時に健康的な人間としてどう生きるか。



 マルクスの考え方の中に、この答えの一つがあると考えるのは僕だけでしょうか。
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9 洪秀全 (1813年~1864年)




~民族差別からの解放に立ち上がった中国の農民~




 中国人の9割以上は漢民族です。


 長い歴史の中で、その大半は漢民族自身が自分たちの国、中国を治めてきました。




 しかし、他の民族に漢民族全体が支配されたことが2回あります。


 1回目は元 (げん) です。



 日本でいうとほぼ鎌倉時代に相当します。

 元王朝はモンゴル族が支配した王朝でした。



 2回目は清 (しん) です。

 江戸時代から明治時代に相当します。



 清王朝は中国東北地方の少数民族である女真族(後の満州族)が漢民族を支配した王朝です。


 どちらも支配のための道具として民族差別を利用していました。



 特に清王朝は漢民族に対して女真族の髪型である辮髪 (べんぱつ) を強制しました。

 前頭部の髪を剃り上げて後頭部は腰のあたりまで伸ばすという民族独特のものでした。




 この例1つとってみても、漢民族は服従させられていたことがわかります。



 しかし、欧米列強のアジア侵略が激しくなると、清はアヘン戦争をはじめとして相次ぐ戦争に敗れ、財政がきびしくなりました。



 そして国民に重税をかけたのです。

 ここに至って漢民族の不満が爆発しました。



 その先頭に立ったのが、太平天国をつくった洪秀全 (こうしゅうぜん) という人物です。



 洪秀全は広東省広州に近い客家(はっか)の農家の生まれです。

 客家というのは 「移住してきた人々」 という意味で、よそ者として冷遇されていました。



 子どものころから秀才といわれ、役人をめざして科挙を4回受験しましたが合格することができず、塾の先生をしながら受験勉強を続けていました。



 その後、独自のキリスト教団である上帝会を組織しました。

 1851年、太平天国の建設をめざして江西省の金田村 (きんでんそん) で挙兵します。



 世界史上有名な 「太平天国の乱」 と呼ばれているできごとですね。


 でもこの言葉は清王朝の皇帝の立場に立った呼び方でしょう。



 被差別の立場にあり、人口の9割を占めている漢民族の人々の側に立てば、

 「太平天国の解放戦争」



 と呼ぶほうが内容的には適切ではないかと僕は考えています。



 「土地も食料も公平に分配し、平和で平等な国をつくろう」

 「満州の征服王朝、清の象徴、辮髪を切れ。



 漢民族は神のもとに平等な世の中をつくるのだ」



 太平天国軍は辮髪をやめて長髪にしたので 「長髪賊の乱」 とも呼ばれました。

 この賊という言葉も、人を見下す意味合いを感じさせる言葉ですね。



 人間として対等に考えれば解放軍でしょう。



 「太平天国には身分の高い者と低い者、金持ちと貧乏人、そんな差別はない」

  上帝 (エホバ) を信仰し、自由で平等な社会をつくる運動になっていきました。



 税金も取らないようにしました。



 1853年、太平天国軍は50万人にふくれあがり、ついに南京を占領しました。

 一時的ではありますが、南京とその周辺地域に事実上の独立国が誕生したのです。



 南京を天京と改めて首都とし、洪秀全は天王と名乗りました。

 太平天国は一時300万人にもなりました。



 しかし太平天国の快進撃はここまで。



 国内の指導者どうしの争いが後を絶たないようになり、天王となった洪秀全もタバコや酒を禁止しながら、自分は宮殿で女性たちを侍らせた私的な快楽がうわさになったりしました。



 1864年、清軍と列強諸国の外国軍との攻撃を受け、太平天国はあっけなく滅亡します。

 洪秀全も首都陥落の直前に、病死したとも自殺したとも伝えられています。



 民族解放の夢は武力によって破れ去りましたが、この解放戦争は後に孫文という人物に受け継がれます。


 約50年後、辛亥 (しんがい) 革命で清を倒した孫文は



 「自分は第二の洪秀全になるんだ」


 と言って革命運動を起こしたのです。



 洪秀全が立ち上がったとき、すでに中国は民族差別から解放される 「革命」 が始まっていた、と考えるのはいかがでしょうか。
8 ストウ夫人 (1811年~1896年)



 ~物語を通して人種差別と闘ったアメリカの主婦~



 「奴隷法は私には信じられないこと、驚くべきこと、悲しむべきことです。

  残酷と不正を思って、私の心は苦しみで破裂しそうです」



 これはストウ夫人の言葉です。



 人種差別問題を当事者たちと共有しているからこそできる発言ですね。



 自分自身の問題としてとらえているのがよくわかります。

 他人事として考えていれば決してこのような言葉は出てきません。



 ストウ夫人の本名はハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウです。



 僕は彼女をさす言葉を使うときは 「ハリエット・ストウ」 でよいと思うのですが、日本の書物にはやたらと「ストウ夫人」という言い方が多いのです。



 なぜでしょうか。



 ハリエットという呼び名でなく 「夫人」 という呼び名を使うこと自体、個人が尊重されているのか疑問です。

 夫は大学教授だったそうですが、僕はあえて彼女の本名、ハリエットを使うことにします。 



 1811年、ハリエットはコネチカット州リッチフィールドに生まれ、1832年、家族でシンシナティに移住しました。

 21歳のときに、奴隷売買の恐るべき実態の場面に遭遇しています。



 この体験が、後に名作 「アンクル・トムの小屋」 を書くきっかけになりました。

 1832年、彼女は執筆の決意をします。



 その4年後、カルヴィン・ストウと結婚し、7人の子どもが生まれています。

 子だくさんの健康的な印象がもてる主婦ですね。



 1852年、「アンクル・トムの小屋」 が発行されました。

 1年間で30万部を売りつくすベストセラーになりました。



 物語の主人公である黒人奴隷のトムは、温和で謙虚で愛情に富んだ人物です。

 彼が白人の奴隷主の間を次々に売られ、むちで打ち殺されるまでの悲惨な一生が描かれています。



 南部の非人道性と、奴隷たちの苦しい生活を描いたので、奴隷問題について大きな議論をよびおこすことになりました。

 当時の黒人奴隷に対する人権侵害はさらに徹底していました。



 それは 「逃亡奴隷法」 という法律があったのです。



 この法律によれば、逃亡奴隷に援助の手を差し伸べたりかくまったりした者は告発され、刑事罰を受けるというものです。



 ただただ、驚いてあきれるばかりですね。



 この法律では黒人は人間ではなく、奴隷主のための道具にすぎないのです。

 現代ではとても考えられないような法律がまかり通っていました。



 ハリエット・ストウは40歳にして、意を決してペンを執ったのです。

 ペンによるアメリカの差別との闘いの始まりですね。



 このことがアメリカの世論に火をつけます。



 後に1861年、南北戦争がおきますが、この戦争の原因の一つとして 「アンクル・トムの小屋」 があることは明白です。



 そして中学校や高校の教科書にある通り、リンカーン大統領のあの有名な 「奴隷解放宣言」 につながっていくのです。



 その後、確かに制度としての奴隷はなくなりました。

 しかし、黒人を見下す習慣は「差別」という形で現在まで厳然として存在しています。




 問題はまだ解決されていないのです。




 たとえばオリンピックのアメリカ代表の選手で、陸上競技やバスケットボールでは、すぐれた黒人選手がたくさんいます。

 でも、水泳や器械体操ではアメリカの黒人選手は皆無に等しいという現実があります。




 なぜなのでしょうか。




 「アンクル・トムの小屋」 はまだ終わっていないのです。




 不合理な黒人差別の解消に向けてその第一歩を踏み出したハリエット・ストウ。




 彼女こそ基本的人権の視点から見た世界史にはなくてはならない人で、もっと光を当てて学ぶべき生き方をした人物だと僕は思います。

7 JSミル (1806年~1873年)




~女性の解放をとなえたイギリスの男性哲学者~




 「差別はされる側の問題ではなく、する側の問題である」ということを自信をもって言えますか。


 僕はこう言えるようになるまで、かなりの長い年月を費やしたと思います。



 僕は中学校の社会科教員をやっていますが、同時に同和教育主任という仕事もしています。



 同和教育の授業をするときに、この 「差別はする側の問題」 ということを教え子たちが最もよく理解してくれる例は女性差別です。



 「女性差別は誰の問題ですか」

という問いの答えは、すばり



「男性の問題」です。



 多くの場合、女性の問題ではなくて、男性の問題ですね。



  つまり 「する側の問題」 なのです。



 この女性差別の解放を唱えた男性がJSミルです。

 中学校の歴史教科書では出てきませんが、高校の世界史では一言だけ出てきます。



むしろ高校の倫理の方で具体的に学習する人物です。



 僕は哲学はあまり得意ではありませんが、JSミルは 「功利主義」 という考え方の人物として説明されます。

利己的快楽の追求と社会全体の幸福との調和をはかろうとする考え方です。



 彼が生きた時代のイギリスは、産業革命の影響で資本主義経済が大きく発展していましたが、同時に多くの社会問題も発生していました。



 ミルはこの社会問題に強い関心をもち、特に労働者の保護や女性の解放に力を尽くした人です。


 世界的に優れた哲学者・経済学者であると同時に、人権感覚豊かな解放者でもある、と僕は考えています。



 JSミルは1806年、ロンドンで生まれました。

3歳でギリシア語を、8歳でラテン語をマスターした天才です。



 14歳ではフランスに学び、功利主義者としての思想を確立しています。



 24歳で人妻のティラー夫人と恋愛関係になり、この恋愛は長く続きました。

社会から多くの非難を受けましたが、1851年、正式に結婚しました。



 その8年後に彼は 「自由論」 という本を書いています。


 彼は被差別の立場に立てる人ではないでしょうか。



 僕がこう考える根拠は、労働者の団結権を擁護したこと、労働者の選挙権拡大と婦人参政権を主張したことなどにあります。



 さらに 「自由論」 の中では 「権力からの自由」 と同時に

「社会の多数派の横暴からの自由」



を強調しています。



 イギリスは産業革命で婦人問題も発生していました。

 過酷に働かされる悲惨な婦人が増大し 「婦人の隷属」 という状態になっていました。



婦人の解放は人類向上に必要という考えをもち、婦人解放運動にも取り組みました。



 具体的には1867年、JSミルは下院の第二次選挙法改正をめぐる討議において、イギリス憲政史上初めての女性参政権を要求する修正動議を提出しました。



 また、彼の著書 「女性の解放」 は女性解放の古典とも呼ばれます。

 イギリスでは反論もありました。



実際それまでに女性による知的あるいは創造的業績が少ないではないかというものです。



 これに対してミルは、教育を受ける機会が少なかったこと、家庭生活に関するさまざまな雑務に追われて、こうした分野に従事する時間がなかったことを指摘しています。



 このことは結局社会に不利益をもたらすとしました。



 男女平等。



 現在では広く認められ、基本的人権の中の重要なものの1つとして、さまざまな場面で具体的に意識されるようになりつつあります。



 男性が、女性支配のための道具として長い間利用してきた女性差別。


 この差別意識を乗り越えなければならないのは、例外はありますが、多くの場合、男性なのです。



そして僕もそうですが、JSミルもまぎれもない男性の一人です。
6 ウイリアム・ガリソン (1805年~1879年)




~ペンによる三十年戦争で奴隷解放をめざしたアメリカのジャーナリスト~




 アメリカ合衆国の独立以来、現在に至るまで大きな人権侵害が2世紀以上にわたって続いています。



 人種差別ですね。



 中でも黒人に対する差別は奴隷制という身分制度になって現れ、現在は制度としては否定されたものの、社会の隅々まで 「差別」 という形で根強く残っています。



 独立の父ワシントンやジェファソンもこの問題については気にしていましたが、当時は奴隷制を肯定する強力な世論があり、思い切った政策をとることができませんでした。



 ガリソンはこの奴隷解放のために、言葉で30年にわたって闘い続けた人物です。


 人権尊重の世論を作り上げた解放者だと思います。



 その延長線上に、あの有名なリンカーンの 「奴隷解放宣言」 があります。



 しかし近年は、リンカーンの奴隷解放宣言は、南北戦争に勝利するための戦略であり、国際世論を味方につけるためだった、という意見が多く言われるようになりました。



 僕はガリソンの活動こそ、真に被差別の立場に立った、人間を人間として尊重する解放運動だと考えています。



 彼は 「普遍的解放の天才」 とうボルティモアの新聞を編集したときに「ザ・ブラックリスト」という連続特集記事を組みました。



 この中でフランシス・ドットという人物が、奴隷貿易を行っている事実を取り上げたのです。



 ドットは船荷主で、持ち船のフランシス号という船を使って、ボルティモアからニューオーリンズまで奴隷を運んでいたのです。


 「奴隷運び人」 になっていたドットを新聞で批判したのですね。



 しかしガリソンは名誉毀損で訴えられ、メリーランド州の法廷は有罪の判決を下しました。



 50ドルの罰金と、裁判費用を支払うように命じられてしまいました。



 彼はお金がなかったのでこの費用を払えず、6ヶ月間の収監を宣告されましたが、タッパンという人物が罰金を肩代わりしてくれたので、7週間で釈放されました。



 また、ガリソンに対して、ジョージア州政府は逮捕に5000ドルの賞金をかけました。

 さらに 「殺害する」 という脅かしも何回も受けたことがあります。



 命までねらわれ執ような攻撃を受けたのでした。


 恐るべき差別者たちのいじめですね。




 1831年、ガリソンは奴隷制度の反対をさけぶ週刊新聞 「解放者」 を発行します。

 このため、アメリカ合衆国北部の奴隷解放運動はますます高まっていました。




 彼は奴隷制廃止運動家であるとともにジャーナリスト、社会改革者でもありました。

 「アメリカ反奴隷制度協会」 の創設者の一人でもあります。




 これだけでも、ガリソンがいかに積極的に人間の自由のために取り組んでいたかがわかりますね。


 彼の解放運動のやり方は、非暴力と消極的抵抗でした。




 ペン1本で粘り強く抵抗し続けたのです。


 1834年、ガリソンは結婚しました。




 相手は奴隷制度廃止論者で引退した商人の娘、エリザ・ベンソンです。

 よき理解者を得て、この夫婦には5人の息子と2人の娘が生まれています。




 彼の闘い 「ペンによる三十年戦争」 は、アメリカ全体に大きな影響を及ぼすことになります。

 1861年の南北戦争が、その延長線上に浮かびあげって来ます。




 そしてこの戦争のさなかに発せられたリンカーンの 「奴隷解放宣言」 につながるわけです。




 でも高校世界史の教科書では、奴隷解放はまるで当時の大統領リンカーンが一人でやったような印象を受ける記述になっているのが気になります。




 奴隷解放に真剣に取り組み、命の危険にさらされながら闘い続けたガリソンの名前は全く出てこないのです。


 このことを疑問に思うのは僕だけでしょうか。




 身の危険を乗り越えて、命がけで人種差別と闘い続けた勇気あるジャーナリスト。




 なかなかできることではないと思います。




 彼の名は、もっと多くの人々に知られてもよいのではないでしょうか。