5 ドラクロア (1798年~1863年)




~民衆の立場から七月革命を世界に広げたフランスの画家~




 ドラクロアはフランスの激動の時代を生きぬいた画家です。

 彼の生存中に、フランスでは自由を求めた大きな革命が3回ありました。



 フランス革命、七月革命、二月革命の3つですね。

 さらに共和政が2回、帝政も2回、バイロンが駆けつけたギリシアの独立戦争もこの時期におこりました。



 彼の作品の中で、僕が特に注目したいのは七月革命を題材にした 「民衆を導く自由の女神」 とギリシア独立戦争を題材にした 「キオス島の虐殺 」の2点です。



 1789年におこったフランス革命の後、ヨーロッパはどうなってしまったのでしょうか。



 フランスの当時の国王ルイ16世をギロチンの刑で処刑したため、周辺の諸国は驚いてフランスに干渉戦争を仕掛けてきました。



 絶体絶命の大ピンチです。



 ここで登場したのが有名なナポレオンです。

 フランスを守るだけにとどまらず、強すぎて逆にヨーロッパのほとんどを征服してしまったのです。



 しかし長続きはせず、やがてナポレオンは没落しました。



 1814年に開かれたウィーン会議では、ナポレオン戦争後のヨーロッパをどうするか、ということがヨーロッパ各国の代表によって話し合われました。



 オーストリアの宰相メッテルニヒを議長としたこの会議の結論は


 「ヨーロッパをフランス革命前の状態にもどす」


 ということでした。



 支配者にとって都合のよい、歴史の逆もどりですね。



 こうしてフランスは再び絶対王政の復活に向かっていったのです。


 しかし国王シャルル10世のとき、自由を求めた民衆の不満は、再び爆発しました。



 これが1830年におこった七月革命です。



 ドラクロアは、パリ近郊のサン・モーリスという町で外交官の子として生まれました。

 1805年、いとこが住んでいたノルマンディー地方で見た絵画にとても感動して、美術に興味を示すようになりました。



 1816年には美術学校に進学して、1822年、「ダンテの小舟」という作品で、サロン(官展)に入選しています。

 高校の世界史の教科書にも登場する名作 「キオス島の虐殺」 を発表したのは1824年のことです。



 彼はバイロンを敬愛していました。



 ギリシア独立戦争でオスマン帝国軍がキオス島で虐殺、略奪を行ったことに憤然とし、自由のためにこの作品を通して世界に訴えたのです。



 ドラクロアは目撃者に様子を聞き、オリエンタルな服をスケッチして作品を完成させました。

 現在はパリのルーブル美術館に所蔵されています。



 1830年には有名な 「民衆を導く自由の女神」 を発表します。

 僕は絵が得意ではありませんが、とても好きな絵の1つです。



 「栄光の3日間」と呼ばれるバリケード戦の末に、ラファイエットを国民衛兵総司令官とする革命派が勝利し、国王シャルル10世を亡命に追い込みました。



 青・白・赤の三色旗は

 「自由・平等・博愛」



 を表し、現在のフランスの国旗になっています。

 自由の女神がこの三色旗を片手に、厚い胸もあらわに民衆の先頭に立って、自由のために戦いをいどんでいます。



 とても激しい絵ですが、ドラマチックな感動を覚えるのは僕だけではないと思います。



 ドラクロアは七月革命に直接参加したわけではありませんが、彼の熱い思いは十分に伝わってきます。

 一般民衆の立場に立ち、自由という基本的人権を深く愛し、画家として自分自身も自由な創作活動に生きた人物です。



 絵画という一目でわかる強烈な作品を通して、彼が訴えた内容はあまりにも重要です。



 有名な詩人のハイネも、パリのサロンでこの絵を見て、その衝撃に思わず立ちつくしました。



 ドラクロアは、僕が共感できる 「自由」 を世界に広げ、人権尊重の生き方をした熱い人物の一人です。
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4 バイロン (1788年~1824年)




~ギリシア独立戦争にかけつけた恋多きイギリスの詩人~




 バイロンは、19世紀初期のイギリスのロマン主義を代表する詩人として知られています。



 男爵の家系を引きながら、奇行の多い両親の間に生まれたせいか、人間形成に暗い影を落としたといわれています。

 父の死後、バイロン卿となって、ケンブリッジ大学卒業の翌年、上院議員になりました。



 彼は偽善的な貴族社会にあきあきして、反抗的な精神をもっていました。

 南欧諸国や中近東を旅し、その間の思いを綴った物語詩 「チャイルド・ハロルドの巡礼」 で詩壇に迎えられています。



 その後ロンドンに移り住むと、社交界の花形として脚光を浴びるようになりました。

 バイロンが23歳のころです。



 風貌の美しさにひかれて、有閑な婦人たちは彼の出席する宴会に殺到しました。

 まさに社交界の寵児(ちょうじ)ですね。



 しかし彼は貴族社会に幻滅しており、冷笑的になっていました。

 「恋多き詩人」



 と言われましたが、やがて奔放な女性遍歴や酒と色におぼれただらしない生活を非難されるようになります。



 だから、故国のイギリスを捨ててヨーロッパ大陸に渡り、各地を歩き回りながら詩作を続けたのでした。

その作風は、自由かつ強烈な風刺精神で知られています。



 1821年、イスラム教徒のオスマントルコ帝国の圧政に苦しんでいたキリスト教徒のギリシア人は、独立戦争を開始しました。



 ギリシアは翌1822年、オスマン帝国からの独立を宣言し、フランスやイギリス、ロシアなどの援助を受けながら戦いを続けたのでした。



 まさに自由のための戦いですね。



 このギリシアの独立戦争には、多くのヨーロッパ人が参加しています。


 この中にイギリスの大詩人バイロンがいたのです。




 彼はこのギリシアで没しているので、後に

 「ギリシア独立の英雄」 の一人として知られるようになりました。



 1823年、バイロンは義勇軍として参加するため、ギリシアに向かいました。

 途中は海のしけに見舞われ、出没するトルコ艦隊にもかなり苦しめられました。



 どうにかギリシアのミソロンギに着いたときには、バイロンは病で倒れてしまいました。

 伝染病のマラリアです。



 そして

 「私はもう眠らねばならぬ」



 と最後の言葉を残し、そのまま帰らぬ人になってしまいました。

 1824年のことです。



 結果は、わざわざマラリアで死ぬために、勇んでギリシアへ行くようなことになってしまったのです。

 つまり、バイロンはオスマン帝国と戦う前に病死したのです。



 無念の死であったことでしょう。

 自由のために命をかけて戦おうとしていた矢先のことでした。



 最終的にギリシアが完全に独立を達成するのは、それから5年後の1829年のことでした。

 バイロンはギリシア独立の英雄と呼ばれながらも、実際には戦闘に参加できずに終わってしまいました。



 しかし、彼が遠くギリシアまで駆けつけたという行為は、本人の一生を象徴している出来事だと思います。



 バイロンの一生は 「自由」 の一文字を貫いているような生き方だったから、本人は意外と納得して死んでいったのかもしれません。



 僕が彼の生き方に共感できることは、自分が貴族の出身でありながら貴族社会の型にはまろうとしなかったことです。


 これは、差別意識から解放されていたからだと考えられます。



 地位と肩書がものを言い、上下関係すなわち支配と身分差別が横行していては不自由で、人間らしく生きることはできません。



 批判はあったけれど、奔放な女性遍歴、生涯詩人として創作活動を行ったこと、イギリスを捨てたこと、ギリシアへ駆けつけたこともすべて



 「自由のための闘い」



 であったと僕は考えています。

3 シモン・ボリバル (1783年~1830年)




~植民地の解放に命をかけたベネズエラの白人~




 「太陽の沈まぬ国」 と豪語した人がいます。


 スペインの全盛期を築いた国王フェリペ2世です。



 世界中に広大な植民地をもっていたので、1日24時間、スペイン領のどこかが必ず日に当たっていたということですね。



 ラテンアメリカの大半は、16世紀頃から始まった大航海時代をきっかけに、長い間スペインの植民地と化していました。

 先住民たちの国であったアステカ帝国やインカ帝国も、スペインによって次々に滅ぼされていました。



 この広大な中南米を支配したスペインは何をしたのでしょうか。



 一言でいえば 「略奪」 です。



 先住民のインディオと、西アフリカから移入させた黒人奴隷を働かせて鉱山を開発し、莫大な金銀を独占しました。



 このほかプランテーション農業や、都市の建設などでも過酷な労働を強制し、さらにスペインがもたらした天然痘やインフルエンザが流行したため、先住民の人口は目を覆うほど激減しました。




 人を人として扱わない人権侵害が公然とまかり通っていたわけですね。




 シモン・ボリバルはこのような状況の中で、ベネズエラの名門クリオーリョ(植民地生まれの白人)の家に生まれました。

 カラカスの裕福な貴族の家だったのですね。




 両親を早くに亡くしましたが、乳母と家庭教師の深い愛情により育てられました。

 15歳のときには軍に入り少尉になりました。




 その後、学問のため本国スペインに渡り、1802年にはフランスに渡りました。


 ここで学んだ啓蒙思想が後の彼の行動を決定づけることになったのかもしれません。




 スペインにもどったシモン・ボリバルは、マドリードでマリアという名の貴族の娘と結婚しました。



 しかし、幸せは長く続きませんでした。

 わずか1年後、最愛の妻が死亡してしまったのです。



 本人の告白によれば、この妻の死が転機となり、祖国解放の独立運動に身を投げることになったのだそうです。

 妻をよほど愛していたのでしょう。



 彼はその後、生涯再婚をしていません。



 1806年、ベネズエラ独立運動に身を投じ、1811年には、「ベネズエラ独立宣言」 が行われました。



 これにより、中南米の独立戦争が本格化していきましたが、一時敗れてキューバに避難しました。

 1815年にもスペインの鎮圧軍に敗れ、しばらくの間、ハイチ等で身を潜めたこともありました。



 この 「鎮圧軍」 という言葉は、上から目線の言葉ではないでしょうか。



 植民地の人々の立場に立てば、植民地軍は 「解放軍」 と呼ぶのが適切だと思います。



 ついに、1819年、シモン・ボリバルはコロンビアのボヤカの戦いでスペイン軍を破りました。

 同年11月、エクアドル、コロンビア、ベネズエラが合併してできた 「大コロンビア共和国」 を樹立したのでした。



 その後ボリバルは、ペルーを独立に導いたパンパの戦い、アヤクーチョの戦いでも勝利しました。


 後に独立した 「ボリビア」 の国名は彼の名、「ボリバル」 によるものです。



 ところが、なかなかすんなりとはいきません。

 部下たちの裏切りにあい、各地の利害が対立したので、1830年に大コロンビア共和国は分裂してしまいます。




 この頃から胸の病にかかり、失意のうちに他界しました。

 享年47歳でした。




 彼はラテンアメリカの解放者であり、独立の父です。




 僕が彼に共感できることは、先住民ではなく白人でありながら、先住民の立場に立って解放運動に命をかけたという点です。



 裕福な家でしたが、財産はほとんど使い果たしました。



 先住民インディオを人間として尊重し、自由のために命がけで戦った白人。




 彼こそ世界史の中でもっと大きな光を当てられてもいい人物ではないでしょうか。

2 ロバート・オーウェン (1771年~1858年)




~貧富の差のない平等な社会をめざしたイギリスの工場主~




 18世紀のイギリスは世界初の産業革命を成しとげ、世界最大の工業国になったので 「世界の工場」 とまで呼ばれるようになりました。



 国土の面積そのものは日本よりも小さいのですが、国内には豊富な炭田や鉄山がありました。



 また早くから議会政治が発達していたことにも関係して、「自由」 でさまざまな発想をすることがしやすかったのでしょうか、工業の発達につながるような機械などの発明が相次ぎました。




 このようなことからイギリスでは商品の大量生産が可能になり、社会全体が大きく変化していったのです。


 また、海外には広大な植民地をもっており、原材料を安く仕入れ、同時に製品の市場にもなりました。




 このころの日本は、まだ江戸時代で鎖国中。

 工業の発達には程遠い状態でした。




 イギリスはまさに世界の最先端を行く、当時としては世界で最も進んだ国だったのです。


 しかし、この産業革命には「光と影」があります。




 発達する資本主義の中で、資本家と労働者という階級が生まれ、あらゆる権限をもつ少数の資本家に対して、大多数の弱い立場の労働者たちは、影の部分を味わうことになりました。




 自由競争という名のもとに、生産性をあげて豊かになろうとした多くの資本家たちは、労働者たちに過酷な労働を強いるようになったのです。




 低賃金で長時間労働、鞭 (むち) を打って檄 (げき) を飛ばす。


 大人だけでなく、少年少女たちにも容赦しないという過酷な労働環境となりました。




 中には病気になったり死亡したりする者も現れるほどでした。


 産業革命もまた差別的な社会を生み出し、さまざまな人権侵害が公然と行われていたのです。




 ロバート・オーウェンはこの労働者たちの悲惨な労働状況を自分自身の問題としてとらえ、労働者の立場に立って課題を共有し、解決しようとした数少ない資本家だと思います。




 彼は徒弟から身を起こし、スコットランドのニューラナーク村の紡績工場の経営者になった人です。

 労働者の待遇改善をとなえ、労働組合や協同組合の設立に努力をしました。




 また、労働者の子弟のための世界初の幼稚園や、サマータイム制の導入など、現在いろいろな国で採用されている先進的な取り組みを積極的に行いました。




 ロバート・オーウェンは資本主義の欠点を改革し、貧富の差のない平等な理想社会をつくろうとしました。




 後に彼は自分の全財産をつぎこんで、アメリカのニューハーモニー村で理想社会を建設しようとしたのです。


 こんなに心ある資本家のもとなら、僕たちは喜んで働きたくなりますね。





 しかし結果はうまくいかずに挫折し、理論があまり現実的ではなかったととらえられています。

 彼の考え方は 「空想的社会主義」 とよばれ批判されることになったのです。





 失敗はしたものの、僕はロバート・オーウェンの生き方にはとても共感できるものがあると思います。




 産業革命という階級的差別社会の中で、労働者とい う「被差別の立場」 に立てたという点です。




 自分が儲けることを最優先に考える資本家はたくさんいますが、彼のように労働者の 「基本的人権」 を重視できる資本家がどれほどいたでしょうか。




 働く人あっての会社です。




 実際に彼の考え方は、発展しながら現在も世界中で生きています。


 日本での例をあげれば、まず日本国憲法の労働三権があげられます。




 法律では労働基準法や労働組合法、さらに、近年のワークライフバランスの生き方など、多くの国で労働者が人間らしく生きる工夫をしています。




 ブラック企業の問題がさかんに指摘される今日の社会の中で、ロバート・オーウェンの活動に、光るものを感じるのは僕だけでしょうか。




 人権感覚にすぐれた人物の一人として世界史上もっと大きく取り上げるべき人物ではないでしょうか。。