1 ベートーヴェン (1770年~1827年)




~王侯貴族の特権である音楽を一般民衆に広げたドイツの大作曲家~




 「人々のために曲を書くときのほうが、そうでないときよりも、ずっと美しい曲を書くことができる」


 ベートーヴェンのノートに書かれていた言葉です。



「そうでないとき」とはいったい何でしょうか。



 それは貴族や王のために作曲することを意味しています。



 ベートーヴェン以前の音楽作品は、ある特別の人たちだけのものだったのです。

 CDもなくテレビもない時代です。



 音楽は王侯貴族の特権でした。


 彼はいつも一般の人たちに音楽を聴いてもらいたいと思っていました。



 彼が目ざしたのは 「民衆のための音楽」 ですね。


 時代も国境も超えた不滅の名曲を次々に作り上げた大作曲家です。




 僕もベートーヴェンの音楽には好きな曲がたくさんあるので、気軽にコンサートに行ったり、何枚かのCDで時々楽しんでいます。



 同時に彼はさまざまな差別を受け、それを乗り越えて生きた人物だと考えています。



 その延長線上に希望と喜び、勇気があり、それらをすぐれた音楽にして人々に伝えたので、200年たった今でも世界中で愛され続けているのだと思います。




 では、ベートーヴェンはどんな差別にあったのでしょうか。



 まず身分差別です。



 彼は貴族ではありません。


 ヨゼフィーネという貴族の女性に求婚したときに、即座に断られました。



 「それはできません。私はかつて伯爵(はくしゃく)の妻だった者。

 4人の子どもたちの教育という役目もあります。



 あなたのお気持ちをお受けするわけにはまいりません。」

 と言われてしまいました。



 男性として、ただ好かれなかったと言ってしまえばそれまでですが、

 「私とあなたは身分が違うのよ」



 という意味の発言の背景には、いったい何があるのでしょうか。



 ジュリエッタという貴族の女性の場合もそうです。

 ベートーヴェンと深い恋愛関係になり、若き日の名曲ピアノソナタ 「月光」 は彼女のために作曲されています。



 しかし、ジュリエッタは親の勧めでさっさとイタリアへ嫁ぎ、ベートーヴェンはとり残されてしまいました。



 このような例は他にもあり、共通点があるのではないか、と僕は考えています。




 次に、障がい者差別です。




 「聴覚を失っていく」 という過酷な運命にさらされます。

 音楽家として絶望的な状態に追い込まれ、一時は自殺まで考え、遺書まで書きました。




 自分自身を差別することにもなってしまったのです。



 ベートーヴェンは、これらの差別とピンチを勇気をもって乗り越え、後に数々の名曲を生み出したことは世界中でよく知られている事実ですね。



 一方的ではありますが、尊敬していたナポレオンにも事実上裏切られています。


 交響曲第3番 「英雄」 は僕の好きな曲の一つですが、実は当初はナポレオンのために書かれた曲なのです。




 「自由・平等・博愛。

 ナポレオンはこの考えのもとに世を変えてくれる。




 たとえ貴族でなくても、努力しだいで立派な人間になれる時代が来る。」

 と熱く友人に語りました。




 しかし、結局ナポレオンは皇帝になって権力をにぎり、独裁政治になってしまいました。


 ベートーヴェンの失望と怒りは激しく、この名曲の表紙を破りすてたと伝えられています。




 長い間王侯貴族に隷属し、支配され、差別され続けてきた音楽家たち。


 ベートーヴェンはこの差別的な社会を、音楽を通して自由で平等なものにしようと、精いっぱい生きた人だと思います。




 音楽だけでなく、彼の自由と平等をめざした生き方そのものにも注目したい世界史上の人物だと思います。
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14 ラファイエット (1757年~1834年)




~身分差別を乗り越えて人権宣言を起草したフランスの貴族~




 世界史上あまりにも有名な人権宣言。

 この内容を、僕の言葉で要約すると次のようになります。




一、人間は生まれながらにして自由、平等である。


二、自由、所有権、安全、圧政への抵抗は人間の権利である。




三、国家の主権は人民にある。


四、思想、言論、出版の自由は保障する。




五、法の前に人はみな平等である。


六、司法、行政、立法の三権はそれぞれ独立の機関とする。





 まさに、近代国家の基本原理を見事に表現していますね。


 この人権宣言の起草者が、フランスのラファイエットです。




 彼は意外にも、名門貴族の出身でした。

 当時は第二身分とよばれる特権階級です。



 しかし、平民である第三身分の代表として議員になっていました。



 勇気ある行動ではないでしょうか。



 ラファイエットは20歳のときに、自ら進んでアメリカの独立戦争に参加しています。

 ジョージ・ワシントンの指揮下に入り、大陸軍を預かって、東海岸を中心にイギリス軍を追い回しました。




 武門の誉れ高い貴族であり、数々の勲章を手に、独立を達成したアメリカから帰国したとき、ラファイエットはフランスの国民的英雄になっていました。




 この時点で、すでに彼は自由のための戦いを実践した人物といえますね。


 貴族であっても一般庶民の立場に立てる、豊かな 「人権感覚」 の持ち主だと思います。




 フランス革命では、バスチーユ牢獄の襲撃を成功させると、国民衛兵軍の総司令官になっています。


 1789年8月26日、ラファイエットが書いた人権宣言が、国民議会によって採択されました。




 「ただ今より人権宣言を読み上げます。

 人権宣言は市民の自由と平等を保証し、新しい市民社会の確立をめざしたものです。」




 これは歴史的瞬間ですね。




 この後世界各国の憲法に、計り知れない多大な影響を及ぼすことになります。

 国際連合の 「世界人権宣言」 への第一歩にもなったと思います。




 ラファイエットは、基本的にはイギリスのような立憲王政を考えていたようです。

 ベルサイユ宮殿に出向き、国王ルイ16世にパリにもどるように説得して、実現させています。




 彼は国王さえしっかりすれば革命は収拾すると考えていました。



 しかしルイ16世は、王妃マリー・アントワネットに動かされて国外への逃亡未遂事件を起こし、強制的にパリに連れ戻されてしまいました。




 国王は誰のためにいるのでしょうか。




 これではもはや、王政への信頼は地に落ちたも同然です。


 王政を廃止し、あくまでも共和政を主張するロベスピエールと対立し、政権を奪われることになりました。




 しかし、このロベスピエールも反対派を次々にギロチンで処刑する 「恐怖政治」 を行ったため、自らもギロチンで命を落とすはめになりました。




 このようにフランス革命は迷走します。




 ラファイエットも一度はクーデターを考えたり、軍部をバックに軍事政権を考えたこともありました。



 しかし、諸外国のフランス革命への干渉が強まると、軍事介入してきたプロイセンとの戦いで敗れ、敵側に逃亡したので信頼と栄光を失ってしまいました。




 結局、最後は挫折した印象が残りますが、僕はラファイエットの生き方に、3つ共感できます。




 まず貴族という身分にこだわらず、堂々と 「平民」 として生きたことです。

 次に 「自由」 を求めたアメリカの独立に命をかけて貢献したこと。




 さらにフランス革命の成果ともいえる 「人権宣言」 を作成したことです。




 彼は、多くの国民を差別しようと思えば、簡単にできた立場です。


 しかし、自らの差別心を乗り越えて自由に生き、多くの国民と対等に生きる道を目指しました。




 納得のいく人生を送ることができた、学ぶところが多い人物ではないでしょうか。

13 シエイエス (1748年~1836年)




~身分差別を乗り越えて国民議会を作ったフランスの僧侶~




 フランスの身分差別は、僧侶が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分というものでした。



 人口の9割が第三身分でしたが、上の2つの身分は、広大な土地とすべての重要官職をにぎり、税を納めなくてよい、などの特権をもっていました。



 つまり少数の差別者が大多数の国民を支配し、その 「道具」 として身分差別が使われていたのです。



 1302年、当時の国王フィリップ4世は 「三部会」 を開きました。

 これは3つの身分の代表者からなる議会で1789年のフランス革命まで、実に400年以上も続いていました。



 僧侶と貴族に都合のよい差別国会です。



 シエイエスは僧侶ですので、この区分によると明らかに第一身分という特権階級になりますが、パリの第三身分の代表として議員になっていました。



 なかなかできることではないですね。



 そして1789年初めには 「第三身分とは何か」 という小冊子を書いて、第三身分の権利を主張していました。



 彼は三部会で発言します。


 「税は国民がみな公平に負担するべきである。われわれ第三身分は、僧侶や貴族も税をはらうことを要求する。」




 これに対して、特権を放したくない僧侶や貴族たちは要求を認めません。




 そこで彼はさらに 「いつまでもそんな特権を認めるわけにはいかない。

 僧侶も貴族もわれらと同じフランス国民ではないか。」 と食い下がります。




 上位の2つの身分は、そこで投票で決めようと言いだします。


 しかし当時の採決方法は、3つのうち2つの身分の賛成がないと可決できない仕組みになっていました。



 これも公平ではなく、差別的な決定方法ですね。


 シエイエスは呼びかけます。


 「これまで通りの採決方法では貴族たちが勝つに決まっている。

 われわれ第三身分の議員こそ国民の代表である。


 第三身分のわれわれだけで議会を開こう。」



 こうして生まれたのが 「国民議会」 です。



 少数ながら上の2つの身分にもこれを認める、心ある人たちがいました。

 人権感覚豊かな、差別意識から解放された勇気ある行動です。



 しかし、妨害を受けます。

 議場に入れないようにされてしまったのです。



 これでも、シエイエスは決してあきらめません。



 「よろしい。議場に入らなくても議会は開ける。

 諸君、室内のテニスコートに集まってくれ。



 そこで議会を開こう。

 われわれ国民議会の手で新しい憲法を作ろうではないか。」



 ここで憲法ができるまで国民議会は解散しないことが約束されました。



 これが世界史上有名な 「テニスコートの誓い」 です。



 国王ルイ16世も最初は難色を示していましたが、譲歩してこれを認めました。


 1789年6月のことです。



 そして翌7月、ついに 「フランス革命」 が始まったのです。


 人権宣言が採択され、憲法が制定され、王政を廃止してフランスは共和政になりました。



 しかし、平民どうしでもさまざまな立場や考えの人々がいて、いくつもの派にも分かれたので、フランス革命は混迷を続けました。



 1799年、総裁政府のときシエイエスは総裁になっていました。

 このときナポレオンを迎え入れたことが、後の世界史を大きく書きかえるきっかけになります。



 1804年、国民の圧倒的人気を背景に皇帝ナポレオン1世が即位し、フランスは帝政になってしまったのです。




 自由と平等をめざして始まったフランス革命。

 僕はシエイエスこそフランス革命の仕掛け人だと思います。




 僧侶という聖職者の身分でありながら、平民の立場に立って、多くの国民と課題を共有し差別と闘いました。

 そして、国民議会を作って差別に決して負けませんでした。




 僕は彼の生き方に共感し学ぶことがあると考えています。



 この時代の世界史は、華やかな王妃マリー・アントワネットや国王ルイ16世、ロベスピエールやナポレオンなどがよく話題になります。



 しかし、人権問題と差別に注目すると、シエイエスをもっと大きく取り上げてもいいのではないでしょうか。
12 コシューシコ (1746年~1817年)




~自由のためにヨーロッパの強国と戦ったポーランド独立運動の父~




 「ヨーロッパの強国」 とはロシア、プロイセン、オーストリアの3国を指します。

 それぞれエカチェリーナ2世、フリードリヒ2世 (大王)、マリア・テレジアの時代にあたります。



 差別者としての仕掛け人は、エカチェリーナ2世です。

武力介入によって、ポーランドを保護国にしようと図ったのです。



 これを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世は、オーストリアを誘い、さまざまな策謀によってロシアにポーランドの保護国化を断念させました。



 その結果1772年、3国による第一次ポーランド分割が行われました。



この3人の中で、マリア・テレジアだけは最後までサインしなかったそうです。

 なぜポーランドを分割しなければならないのか、疑問に思っていたようです。



 もしかしたら、人権感覚がすぐれていたのかもしれません。



  しかし、息子のヨーゼフ2世が積極的に分割に参加しました。


 分割はポーランド人にとって大きな衝撃です。



 改革をしなければならない、という気運が高まる中で、フランス革命の影響もあって、1791年に新しい憲法が制定されました。



 この憲法でシュラフタとよばれる特権的身分の人たちの諸特権が廃止され、社会の近代化が促進されました。



 ところが、新憲法の廃案をもくろんだポーランド国内の保守的なシュラフタの要請に応じて、ロシアが再び武力干渉を行い、これを見てプロイセンも軍隊を送ったのです。



 1対複数の 「いじめ」 に似ています。



 1793年、この2国間で第二次ポーランド分割協定が成立しました。


 この差別的な政策に、ポーランドの国民が黙って見ているはずはありませんね。



 ここで登場するのがコシューシコです。



 コシューシコは、ベラルーシ系貴族の家庭に末子として生まれています。



 ワルシャワの幼年学校を卒業後、1769年から1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣されて軍事教育を受けました。


 アメリカの独立戦争には義勇兵として参加し、ジョージ・ワシントンの副官としてイギリスと戦いました。



 他国の自由のための戦いに自ら進んで参加するという行動は、この問題を他人事ではなく、自分自身の問題として共有していたからこそできたのだと僕は考えています。



 その後アメリカが見事に独立を達成したことは、世界中の人々が知る通りです。

 コシューシコは、人権感覚に優れたアメリカの英雄の一人でもあるのですね。



 帰国後、彼は祖国ポーランドの自由を守るために立ち上がります。



 ポーランド軍の司令官の一人として従軍し、1792年、侵入してきたロシア軍をドゥビェンカの戦いで破りました。


 一時はワルシャワ、ヴィルナをおさえる快進撃をしますが、やがてロシア、プロイセンの連合軍に圧倒されてしまいます。



 1794年10月には彼自身も戦傷を負い、ロシア軍に捕えられ捕虜にされてしまいました。



 特赦 (とくしゃ) された後、ライプツィヒやパリで亡命生活を送り、最後まで母国の独立運動を続けますが、最終的にはスイスで客死しました。



 その結果1795年、3国の第三次分割により、ポーランドは独立国でなくなりました。


 再び独立を達成するのは1918年、実に100年以上後のことになります。




 コシューシコは、確かに高校世界史の教科書で取り上げられている人物です。


 基本的人権の視点から考えると、もっと大きく取り上げてもよいのではないかと僕は思います。



 ポーランドを差別し続けたエカチェリーナ2世の伝記に書かれています。


  「確かにコシューシコは英雄だった」 



 世界史上もっとたくさんの光を当てられるべき人物の一人ではないでしょうか。