11 ジェファソン (1743年~1826年)




~植民地解放のために戦ったアメリカ独立宣言の起草者~




 名文と呼ばれるアメリカ独立宣言の一部を見てみましょう。



 「われわれは次のことが自明の真理であると信ずる。



 すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。

 その中には生命、自由、そして幸福の追求がふくまれていること。」



 これはトマス・ジェファソンが考えた文章で、人間の自由・平等を主張しています。



 さらには圧政に対する反抗の正当性も述べられ、後のフランス人権宣言とともに、近代民主政治の基本原理になっています。



 ジェファソンはヴァージニア植民地の西部で大農場主の子として生まれました。

 大学で科学と法律を学び、24歳で弁護士になりました。




 その2年後にあたる1769年、ヴァージニア植民地議会議員に選出されて、政治家としての道を歩みはじめました。




 1774年の第1回大陸会議では 「ブリテン領アメリカの諸権利の概観」 を発表して、次のように説きました。


 「植民地はイギリス本国と平等な自治を許されるべきである」

 


 この論文によりジェファソンは本国イギリスに対する抵抗運動の理論家としてたちまち頭角を現し、2年後の1776年には、33歳の若さで 「アメリカ独立宣言」 を起草することになります。




 7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日として、今日まで毎年盛大に祝われています。

 後に彼は第3代の大統領も務め、政治的にも活躍しています。




 「1800年の革命」 とよばれる民主主義的政策をいくつも行い、フランスからミシシッピ川以西の広大なルイジアナ州を購入して、国土の面積を倍増させました。




 教育にも力を入れ、1825年に彼が開校させたヴァージニア大学は現在も健在で、アメリカの名門校の一つになっています。



 後の大統領リンカーンは、ジェファソンのことを 「アメリカ民主主義の父」 とよんで高く評価しました。




 しかし、大きな課題もありました。




 これだけ自由・平等を高らかに謳っているジェファソン自身が、200人もの黒人奴隷を抱える大農場主であり、彼らには自由も平等も認められていませんでした。




 この矛盾は独立直後から黒人側から指摘され、忠告されたのです。


「イギリスが植民地に対して行っていることを、自ら黒人に対して行うような矛盾をおかさないように」




 ジェファソンの奴隷制に対する態度は、死ぬまであいまいだったといわれています。


 彼は後に 「奴隷廃止に関する提案」 をしましたが、南部農園の反対で否決されてしまいました。




 この問題は、1861年の南北戦争でリンカーン大統領が出した 「奴隷解放宣言」 により一見解決したかのように見えます。



 しかし、実際には奴隷という呼び名がなくなっただけで、黒人差別はその後も長く続き、21世紀になっても現在まで持ちこされています。




 自由の国アメリカも人種・民族差別については根強い深刻な課題があるといえますね。


 後にこの問題に正面から真剣に取り組んだ人物が、公民権運動で有名なキング牧師です。




 そのキング牧師も最後は暗殺されていることをご存知の方も多いでしょう。




 差別はなくなっていません。




 僕はジェファソンは人権感覚に優れた人物だと思うし、独立宣言もすばらしい内容で、世界中の人々が学ぶことの多い大切なものと考えています。




 ただ残念なことは、独立宣言でいう 「すべての人」 の中に、黒人や先住民族であるインディアンが含まれておらず、除外されているのです。




 「黒人もインディアンも同じ人間だ」




 こう言い切るのは僕だけでしょうか。
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10 プガチョフ (1742年頃~1775年)




~農奴解放のためにエカチェリーナ2世に立ち向かった軍人~




 日本の高校世界史の教科書では 「プガチョフの農民反乱」 とか 「プガチョフの乱」 という表現をしていますが、ロシアの歴史学界では 「農民戦争」 という呼び方が一般的です。



 僕はあえてロシア最大の 「農奴解放戦争」 と呼ぶのが、一般民衆の立場に立った呼び方ではないかと考えています。



 エカチェリーナ2世時代の農民は、農奴制のもとでみじめなくらしを強いられていました。

 まるで奴隷同様の扱いを受けていたのです。



 土地を所有できたのは貴族だけで、農奴は土地とともに、貴族の私有財産でした。

 そして農奴は土地にしばられ、まったく自由を認められませんでした。



 典型的な身分差別ですね。



 ロシア帝国の大帝と呼ばれている強力な皇帝は、ピョートル1世とエカチェリーナ2世の二人ですが、ピョートル1世は農奴制を強化していました。



 またエカチェリーナ2世も、貴族の支持を取り付けるために農奴制を推し進めています。



 そのため農民の暴動が頻発し、1762年から1769年までのわずか数年間だけで、ロシア中で50回を越えました。


 だからプガチョフが中心になった農奴解放戦争は起こって当然という状況で発生したものと考えられます。



 プガチョフは、ロシアのウラル川に近い地方のドン・コサックの小地主の息子として生まれました。

 コサックとは、ウクライナと南ロシアなどで生活していた軍事共同体のことです。



 ドン・コサックはそんな数あるコサックの一つで、ウクライナ人、南ロシア人、タタール人などによって構成されていました。


 現在の南東部ウクライナと、南西部ロシアにあたるドン川の流域を中心に勢力圏をもっていました。

 17世紀半ばにロシアの強化にともなって独立を失い、19世紀から20世紀にかけて、ロシア所属の最大の非正規軍となりました。



 1758年、プガチョフはコサックの娘と結婚すると、七年戦争や第1次露土戦争などにコサック軍として出征します。

 陣中では優秀なコサックとして頭角を表し、指揮職の一つである少尉になりました。



 傷病兵になったこともあり、数年を放浪して過ごしたり、逮捕されたことも何度かありました。



 彼は農奴制廃止を掲げて、政府に隠れ密かにロシア皇帝をまねて、軍隊や官僚機構を作り上げました。

 さまざまな少数民族や工場労働者、炭鉱夫もプガチョフの軍に加わり、多いときには2万5000人にまでふくれあがりました。



 1773年9月、農奴解放戦争はプガチョフにつき従う数十名のコサックによってはじまりました。

 一時は政府軍を破り快進撃をしています。



 偽皇帝を名乗り 「自分はピョートル3世である」 と言って、農奴制からの解放を宣言しました。



 ピョートル3世は、エカチェリーナ2世の元夫であった人物で、謎の死を遂げています。

 妻に殺されて皇帝の座を奪われたのではないかという説もありますが、真相ははっきりしていません。



 プガチョフは1774年には、ボルガ川とウラル山脈にわたるほぼ全域を掌握しましたが、快進撃はここまで。

 その後は敗走を重ね、最終的には敗れてモスクワで処刑されました。



 上から目線で見れば、プガチョフは反乱の首謀者で、ピョートル3世を自称した偽皇帝ということになるでしょう。



 しかしその反面、農奴という被差別の立場に立てば、敗れはしましたが、エカチェリーナ2世という強大な差別者に立ち向かった 「民衆のための解放者」 でもあります。



 国民の大多数の課題を共有するならば、「解放者」 という見方があってもよいのではないか、と僕は考えています。
9 ワシントン (1732年~1799年)




~自由と独立に命をかけたアメリカ建国の父~




 僕がジョージ・ワシントンの生き方に共感できることは、権力への野心がなく、純粋に自由と独立に命をかけたという事実です。



 古代ローマの英雄カエサルや、イギリス・清教徒革命の立役者クロムウェルなどは、権力への野心が強烈で、最終的には独裁者になりました。



 結局だれのための国づくりだったのでしょうか。



 でもワシントンは違います。


権力を握ろうと思えばいつでもできる立場にありながら、決してそうはしませんでした。



 まず、初代大統領の就任を最初は断っています。


 次に国民に推されて、大統領そのものは二期8年間だけ務めましたが、三期目も3選されながら、断固として辞退しました。



 「12年も国家の代表になるのは、自分の信じる共和政にふさわしくない。

 あまり長くなると、民主政治にとってマイナスである」



 という 「決別の辞」 発表して、あざやかな引き際を見せました。



 彼の再選を望む声は多かったのですが、それを固辞して農園にもどり、国民の一人として悠々自適の生活を送っています。



 ちなみに二期目のときも辞退しようとしましたが、ジェファソンの熱心な説得により、やむをえず引き受けたといういきさつがあります。



もし権力に目がくらんだ人間ならここまでできるでしょうか。



 1732年、ワシントンはヴァージニア植民地のウエストモーランドで農園主の子として生まれました。


もちろん植民地ですので、本国イギリスの支配と差別にさらされていました。



 11歳のときに父を亡くし、義兄の養子にされました。

こうした事情から彼は正式な学校教育を受けていません。



10代半ばごろから土地測量技師として働きますが、各州へ旅に出ることが多くありました。



 1752年になると、ヴァージニア民兵軍の副官に迎えられています。

やがて大農場主の未亡人であるマーサと結婚し、農場経営に専念しました。

 

 1774年、第1回大陸会議にヴァージニア代表として参加したワシントンはこう発言しています。



「イギリス国王に手紙を送り、植民地の生活を苦しめるような政治はやめるように申し込もう」



 最初から武力ではなく、言論による正当な交渉から始めていますね。

 イギリスは上から目線で植民地を見下し、「ノー」 の返事をしました。



 しかし翌年第2回大陸会議では、ワシントンは植民地軍総司令官に任命されました。


やむをえず 「自由の国アメリカの独立のために戦おう」 と決意しました。



 アメリカ独立戦争の始まりです。



 隊列をきちんと整えたイギリスの正規軍に対し、ゲリラ戦で相手に大きな損害を与えてはすばやく退く、という戦法で応戦しました。



 この戦いの中で、彼は将校用の宿舎ができても入らず、兵士とともに丸太運びをしたり、兵士たちと同じものを食べていました。



 僕が注目したいのは、独立戦争におけるワシントンのすぐれた戦術よりも、一般民衆とともにあり、同じ目線で対等の立場に立って、精いっぱいできることやり続けた生き方そのものです。




 ワシントンがすぐれた人権感覚の持ち主であったと考えるのは僕だけでしょうか。



 独立後、軍隊の解散を宣言し、もとの農場主に戻ったことも注目ですね。

 このためアメリカは、粛清 (しゅくせい) や恐怖政治などの混乱におちいることがなかったのです。



 ワシントンのこの行動を、彼の最大の功績だとたたえる史家もいます。



 そして彼の遺言には、自分が妻マーサに先立たれていた場合に限ってという条件ではありますが、農場が所有している「奴隷たちの解放」 に関する条項があったそうです。



 彼はすでに人種差別、民族差別の問題も考えはじめていたのですね。

8 ルソー (1712年~1778年)




~人民主権を主張したフランスの思想家~




 波瀾万丈の人生を送った世界的に有名な啓蒙思想家です。



 ルソーはスイスのジュネーブの時計屋の息子として生まれましたが、生後間もなく母親を失っています。 

 さらに10歳のときには父親が蒸発し、孤独と貧困の少年時代を送っています。



 およそ温かい家庭や教育とは、無縁の生活を余儀なくされていますね。



 19歳のとき、パリで12歳年上のヴァラン夫人から学問の手ほどきを受けました。

 母親の愛情に飢えていたのでしょうか、青年ルソーはヴァラン夫人を 「ママン」 と呼び、夫人はルソーを 「坊や」 と呼びました。



 21歳のとき愛人関係にまでなりましたが、ふられたそうです。

 32歳になると、下宿屋で働いていたテレーズ・ル・バスールと同棲を始めています。



 テレーズは無学な女性でしたが、気立てがよく働き者でした。

 彼女との間には5人の子どもが生まれました。



 ルソーは各地を放浪しながら、秘書、音楽教師、作曲家とさまざまな職業を経験しました。

 彼は音楽活動で、音符記号を発明したりオペラを上演したりしました。



 日本人におなじみの童謡「むすんでひらいて」のメロディーは、ルソーがオペラ用に作曲したものです。



 38歳になってから思想家らしい活動が始まります。



 パリで応募した懸賞論文 「学問芸術論」 が多大なる評価を得てから以降 「人間不平等起源論」 「エミール」 といった論文で文明社会を痛烈に批判し、自由・平等を説いて派手な脚光を浴びました。



 有名な 「社会契約論」 では万人の平等にもとづく人民主権論を主張し、後のフランス革命に大きな影響を及ぼしました。


 僕は彼の思想は、基本的人権の視点から極めて共感できるものであり、世界を動かした世界史上なくてはならない人物だと考えています。



 「エミール」 は一種の教育論とでも言うべき内容で、大学時代に教員免許状を取得しようとしていた僕などは、担当の教授から全文を読むことを課題とされ、レポートを書かなければ単位を取得することができませんでした。



 ところが大きな疑問があります。



 ルソーはテレーズが自分やその友人たちと同じテーブルにつくことを許しませんでした。



 これは女性差別ではないでしょうか。



 さらに 「エミール」 の教育論では 「人間の自然性を損なわないように子どもを教育するには、何よりその父と母自らがわが子の教育にあたらなければならない」 といっているのに、彼の5人の子どもたちは全員施設送りにされています。



 明らかな言行不一致ですね。



 啓蒙思想家のヴォルテールは 

 「ルソーは言っていることとやっていることが違う」

 と強い口調で非難しています。



 ルソーは後に自らの行いを悔い 「父親の義務を果たすことのできない者は、父親になる権利はない」 と言っています。


 まさに彼自身のことであり、自分自身を見下す 「自分差別」 とも考えられます。



 それは「ならず者の自分を父に持つより、孤児院で育てられたほうが子どもたちにとって幸せなのだ」とも述べているからです。

 
 さらに晩年、友人にあてた手紙の中では「あのあやまちを償えずに死ぬのは残念だ」と懺悔 (ざんげ) しています。




 もしかしたら、ルソーは自分自身の差別心から解放されたからこそ、あのようなすぐれた著作を何冊も書くことができたのかもしれませんね。




 言行不一致と批判するのは簡単ですが、不幸な生い立ちから始まり、自分自身の多くの苦い差別体験に気がつき、それらを乗り越えたところに彼の人権思想があったのかも知れない、と考えるのはいかがでしょうか。


7 フランクリン (1706年~1790年)




~自由と独立のためにルイ15世を動かしたアメリカの科学者~




 「身分ではなく、あの人は何ができるのかと聞くのがアメリカ人だ」 という言葉があります。


 これはベンジャミン・フランクリンが残した有名な言葉で、僕のとても好きな言葉の一つです。



 当時のヨーロッパではその人間に何ができるか、どう生きるかということよりも身分が大事だったということになりますね。

 つまり肩書や名誉にとらわれた生き方をする人たちが多かったということです。



 実は数年前までの僕もそうでした。



しかしこれは人間として自由に生きるためには、大きな障害になる考え方です。

 フランクリンはアメリカ合衆国の自由と独立のために闘った立役者の一人です。



 中学校や高校の教科書に出てこないため、ワシントンやジェファソンほど有名ではありませんが、独立にはなくてはならない鍵を握っていた人物だと僕は考えています。



 彼がいなければ、もしかしたらアメリカの独立はもっと遅くなり、イギリス軍によってたたきつぶされていたかもしれません。



 科学者としてのフランクリンは、雷が電気であることを証明するために嵐の日に凧 (たこ) をあげました。

 そして避雷針 (ひらいしん) を発明した人として知られています。



 また、政治や文学など、はば広く活躍しました。博学多才の人だったのですね。



 1775年、フィラデルフィアでの第2回大陸会議に、フランクリンはペンシルベニア代表として参加し、こう発言しています。



 「植民地軍というよび方はよくないな。

 これからは大陸軍とよぶのはどうだろう」



 この一言には、いつまでもイギリスの支配下に甘んじない自主独立の精神が凝縮されています。

 イギリス本国からの差別を乗り越えて、自由を勝ち取ろうとする気迫が伝わってきます。



 ジェファソンが起草した独立宣言をすばらしい名文と認め、1776年にはフィラデルフィアでの第3回大陸会議で、ジェファソンとともに独立宣言を採択・公布しました。



 しかし宣言はしたものの、もちろんイギリスはそれを認めず、武力でアメリカをつぶそうとしました。



 独立戦争は大きく苦戦していました。

 何しろ相手は、世界最強といわれるイギリスの正規軍です。



 ゲリラ戦で善戦したものの、なかなか名実ともに独立を達成することは至難の業でした。



 ここでフランクリンが大きな活躍をします。

 彼はフランスにわたり、国王ルイ15世に 「どうかわが国と同盟を」 と、独立をかけた援軍を要請したのでした。



 フランクリンの人柄や科学上の名声もあってのことか、彼はフランスで歓迎されました。



 そして1778年、2月6日、ルイ15世はついに 

 「フランクリンさん、あなたの国と同盟を結び援助しましょう」



 と述べ、つぶされかけていたアメリカが生き返ることになりました。



 勝負あった瞬間ですね。



 ニューヨークにある 「自由の女神」 は世界的に有名です。

 だれでも写真やテレビ、本などで一度は見たことがあるでしょう。



 あれはアメリカが作ったものではなく、独立100周年を記念して、フランスが贈ったものであることをご存知でしょうか。



 同盟当時72歳のフランクリンとフランスは、アメリカ独立にはなくてはならない鍵だったのです。


 そして自由と平等を旗印にして、世界中に大きな影響を現在も及ぼしています。



 僕はフランクリンは、高校の世界史の教科書で取り上げてほしい人物だと思っています。



 彼にもっと光をあてると、その人権意識・生き方から、もっと多くのことを学ぶことができるのではないでしょうか。