6 モンテスキュー (1689年~1755年)




~権力分散で自由をめざしたフランスの社会学の父~




 フランス絶対王政の黄金時代を築いた太陽王ルイ14世の晩年から、次のルイ15世の時代に生きた世界的に有名な啓蒙思想家 (けいもうしそうか) です。



 啓蒙思想というのは合理的な知を重んじて、偏見を批判する思想です。


 現在の日本でも、彼が唱えた政治制度が直接採用されています。



基本的人権の視点から、世界史上見逃せない、極めて重要な人物の一人だと僕は思います。



 モンテスキューは、ワインの産地として有名なフランスのボルドーで生まれました。

 7歳のときに母を亡くし、母の遺産を継いで男爵 (だんしゃく) という位の貴族になりました。



 ボルドー大学法学部を卒業し1716年、ボルドー高等法院副院長に就任しました。


 しかし、実務面にはあまり関心がなかったようで、1726年、37歳のときに辞職してしまいました。

 

 以後学究生活に入っています。

 彼が学究生活で深く追求したものは 「権力」 というものです。



 権力とは、つまりわかりやすく一言でいえば 「人を強制する力 」 のことです。


 社会に必要なものであることは納得がいきますが、間違って濫用されれば大変なことになるということも世界史が証明しています。



 たとえばドイツのヒトラー。



 ドイツの国会は 「全権委任法」 という法律を可決し、ヒトラーの独裁権を認めてしまいました。


 その結果、第二次世界大戦という破滅の道を歩むようになったのです。



 このような例はほかにもたくさんありますね。


 モンテスキューは、同一人物や同一官職団体に複数の権力が置かれるならば、自由はなくなると指摘しています。



 だから自由のためには権力分散が必要であると考えたのです。



 1748年、「法の精神」 という著作が出版されます。


 三権分立を唱えた本として世界的に有名です。



 20年かけて執筆された大作でもあります。


 三権とは立法、行政、司法の3つで、現在の日本ではそれぞれ国会、内閣、裁判所が担当しています。



 アメリカやイギリスなどでも三権分立が採用され、「国民の自由」 の獲得のために大きな役割を果たしています。


 またモンテスキューは 「権力分立で相互に抑制と均衡を保つことができれば、市民の自由と権利は保障される」 としています。



 日本の例でいうと次のようになります。



 衆議院は内閣不信任決議で内閣、すなわち政府をつぶすことができ、内閣は衆議院の解散をして国会をつぶすことができます。



 裁判所は違憲立法審査権により、国会が作った法律が憲法に違反するならば無効にすることができ、国会は裁判官に対して弾劾裁判 (だんがいさいばん) を実施することができます。




 さらに内閣と裁判所の間にも相互抑制と均衡の関係があり、モンテスキューの主張が具体的に実施されています。


 だから僕たちは合理的な義務と責任を果たせば、「法の下の自由 」 を享受することができるのですね。




 さらに、僕たち一般民衆は、選挙、世論、国民審査などの方法で、分散したとはいっても、3つの権力が行きすぎないようにブレーキをかけることもできるわけです。



 つまり国民が政治に参加することができ、その機会が平等に与えられているということです。


 
 しかし、これらは当然のようにすぐに実現したわけではありません。



 モンテスキューの生きた時代は日本では江戸時代にあたり、徳川氏が専制政治をしていたことは周知の事実です。



 明治政府もそうでしたし、近年では昭和時代の帝国主義とファシズムなど、およそ彼の主張とはかけ離れた政治が行われていました。



 その間幾多の試練があり、たくさんの人々が血を流して犠牲になり、その上に現在の自由が獲得されたわけです。




 僕たちは歴史を学べば学ぶほど、モンテスキューの権力分散の考え方が、いかに人間の幸福にとって必要な大切なものであったかを考えずにはいられませんね。

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5 ロック (1632年~1704年)




~名誉革命に理論的根拠を与えたイギリスの思想家~




 ジョン・ロックほどいろいろな種類の教科書に出てくる人物もめずらしいでしょう。



 まず中学校の 「歴史」 および 「公民」、高校の 「世界史」 はもちろん 「現代社会」 でも、さらには 「倫理」 まで登場し、僕が知っているだけでも5種類にもおよびます。



 全国の中学生や高校生が必ず授業でお目にかかるこの人物は、いったいどんな人だったのでしょうか。



 ロックはイギリスのプロテスタントであるジェントリーの家庭に生まれました。

 ジェントリーというのは地主で、貴族と庶民の間に位置していました。



 彼は大学卒業後医者になりましたが、偶然にシャフツベリー伯爵という人を治療してその縁で伯爵の秘書になりました。

 このことがきっかけで、ロックはイギリスの政治の重要な人物になっていきました。



 当時のイギリスは政治的に激動の時代でした。



 ジェームス1世に始まるスチュアート王朝の王権神授説による議会無視の専制政治、1642年におこった清教徒革命、その後のクロムウェルの独裁と王政復古、さらには1688年におこった名誉革命など、目まぐるしい動きをしていました。



 このような中で名誉革命を支えたのがロックの思想です。



 ロックの思想の背景にはキリスト教の考え方がありました。



 たとえば基本的人権の一つである 「自由」 というのは人間が神から与えられているもので、何かのご褒美として人から与えられるものではないとしています。



 このようにキリスト教の教義をもとにして、所有権の不可侵、自由などの基本的人権、法の下の平等、生存権などを唱えました。



 このロックの思想が名誉革命後のイギリスの支配的な思想になります。



 イギリスではホッブズが自然状態を 「万人の万人に対する闘い」 ととらえて、国家主権の絶対性を主張していました。



 これに対してロックは、以下の通りです。


「人間は理性的動物である。

自由・平等な平和的状態こそ自然状態である」



不法な統治に対しては、人民は反抗の権利があると主張しました。



 人民は自然権の一部を代表者に委託するが、政府に対する革命権 (抵抗権) があるとしたのです。



 彼の結論の一つです。 



「国民の意に反した政府は変えてよい」 



 ロックの著書の一つである 「市民政府二論」 によると、人々は自由と所有とをよりよく維持するために、自然状態において彼らがもっていた平等・自由および執行権を社会に委ねているのです。



 だから 「社会の権力は公共の福祉を越えたところまで及ぶものではない」 と断言しています。



 しかし世界史をひもといてみるとどうでしょうか。



 権力欲にとりつかれたような自分勝手な専制政治、統一という名の人権侵害、統治という名の公共の福祉を越えた支配と差別が後を絶ちません。



 この意味で、ロックの思想は世界史を変えた重要な考え方だと思います。



 彼の思想は、後のフランス革命やアメリカ合衆国の独立などにきわめて大きな影響をおよぼすことになります。

 フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言などは、ロックの思想そのものといってもいいくらいです。



 ただ注意しなければならないのは、これらの宣言などでうたわれている 「人間」 とか 「人」 という言葉はいったい誰をさしているのかということです。
 


 結論を言えば白人であり、キリスト教徒をさしているのです。



 別な言い方をすれば、白人以外の有色人種やキリスト教徒以外の人々は除外されているのです。



 このことは後におこった世界史上のさまざまな差別や人権侵害の事件が証明しており、現在まで続いている世界的な課題だと思います。
4 クリスティーナ女王 (1626年~1689年)




~王位を放棄して自由に生きたスウェーデンの才女~




 日本でいえば江戸時代前期。

 ちょうど鎖国で有名な3代将軍徳川家光と次の家綱の時代にあたります。



 クリスティーナは当時の日本では考えられないスウェーデンの才女です。



 彼女は幼くしてドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語を話すことができ、10歳のときにはラテン語も話せるようになっていました。



 父親はスウェーデン国王グスタフ・アドルフです。



 またクリスティーナは、自由奔放に生きた女性としても知られています。


 当時はまだ男性への従属を意味していた結婚を、自分の意志ではねつけました。



 つまり女性差別に負けなかったのですね。



 プロテスタントを国教としているスウェーデンの女王が王位を投げ出して、国教の敵であるカトリックに改宗するなど、自分に正直に自由に生きました。



 女性が意志をもって生きることのすばらしさを実践した、傑出した人物だと僕は思います。



 父親のグスタフ・アドルフは、王位の継承者となるべきクリスティーナに、厳しい教育を施していました。

 宰相(さいしょう)に、娘を 「王子」 同様に教育するよう命じていたのでした。



 学問についても早熟で、わずか12~13歳で複雑な政治問題を論ずることができるようになっていました。



 しかし彼女が6歳のとき、グスタフ・アドルフは戦死してしまったのです。

 女王になって最初は5人の摂政が政治を代行し、18歳になると親政を開始しました。



 クリスティーナ女王は、会議に臨んでは議事を見事にさばき、三十年戦争も講和に持ち込み、戦争を終結させました。

 学術振興にも努め、哲学者のデカルトをはじめ、ヨーロッパの著名な学者をストックホルムに招いています。



 しかし、彼女が本当にあこがれたのは南国文化であり、住みたかったところは、イタリアの古典文明の地ローマでした。

 このままスウェーデンにいては女王という肩書にほんろうされ、不自由でストレスの多い一生になることは明らかでした。



 事実、結婚問題一つをとってみてもそうです。



 クリスティーナが6歳の時から政略結婚の申し込みが数多くあり、まわりも 「結婚を強制 」しようとする動きすらありました。



 これに簡単に応じれば結婚相手に服従することになり、自分の良心に従って生きることはできないことを見抜いていたのです。



  「王位をすてる」



  これが彼女の出した結論でした。



 1654年、クリスティーナ女王は位を従兄のカール・グスタフに譲り、あこがれの地ローマに向かいました。



 それこそヨーロッパ中の驚きと激昂 (げっこう) と関心の中、わずかの供まわりの者を従えて、男装に身をつつみ、まるで逃亡者のようにスウェーデンを脱出したのでした。



 彼女の後半生はローマで全うしています。

 新居をかまえ、詩人、芸術家、学者と接しながら喧嘩(けんか)と奇行の 「女王」 で通したのです。



 確かにスウェーデンの国政の側からいえば、君主の風上にも置けないということになるのでしょう。


 しかし、僕はクリスティーナの生き方に共感できるものがあると考えています。



 肩書と地位、お金と名誉にとらわれて本当の自分を見失ってしまう。


 読者の皆さんのまわりにそんな人はいませんか。



 もしかしたらあなたがそうなのかもしれません。

 また、僕自身もそうだった時期がありました。



 クリスティーナは自分が自分らしく生きるということを、勇気をもって実行した人だと思います。



 女性差別を乗り越えて、人間としての自由を獲得し、納得のいく人生を全うしました。



 とても考えさせられる世界史上の痛快な女性ですね。
3 李自成 (1606年~1645年)




~田畑の平等分配をめざした明の農民~




 李自成 (りじせい) は農民出身の明軍の兵士でした。



 しかし、中国明王朝の末期に闖王 (ちんおう) とよばれた高迎祥 (こうげいしょう) という人の反乱軍に加わっていました。



 闖王とは、迷わずにつきすすむ王という意味だそうです。


 結論を先に言えば、李自成は明王朝を滅ぼした農民です。




 1644年、李自成を中心とする解放軍が首都北京に迫りました。


 僕はここではあえて 「反乱軍」 という言葉を使わないようにします。




 明軍は解放軍に参加し、だれも解放軍と戦いませんでした。



 この事実はいったい何を意味しているのでしょうか。



 この時点での中国国民の代表者はいったい誰なのでしょうか。

 少なくとも明の皇帝ではありませんね。



 明の最後の皇帝になった崇禎帝 (すうていてい) は宦官 (かんがん) 一人を連れて宮殿を出て、裏山の景山 (けいざん) で自殺しました。



 276年間にわたる明王朝の最後の瞬間です。


 李自成は戦いの中で多くの人々に主張しました。



 「金持ちどもから取り上げた食べ物はみんなで分け合おう」



 日照りや戦争続きで田畑は荒れ放題。

 飢え死にしそうな人々には 



 「みんなわが軍に加われ。

 そうすれば田畑は平等に分け与えよう。



 税など納めることはないぞ」



 このように民衆の立場に立ち、土地の平等分配を主張したので支持者がたくさん出ました。


1644年に北京を攻めるころには、何と100万人の軍にふくれあがっていました。



 しかしいったん明を滅ぼしたものの、目の前に大きな壁が立ちはだかることになりました。


 呉三桂 (ごさんけい) という明の強力な将軍です。



 彼は明が滅ぶとき、主力を率いて北京の北西にある山海関 (さんかいかん) で清軍と戦い、侵入をくい止めていました。



 ところがその最中で明滅亡の知らせが入ります。

 呉三桂はどう出るか考えた末、結論はこうでした。



 「農民の反乱軍に従うわしではない」



 これは明らかに農民を見下した差別者の言葉ですね。


 彼は異民族の清に降伏し、清と呉三桂の連合軍で北京を攻め落としたのでした。



 これでは李自成もたまりません。


 
 敗れて行方不明になり、戦死したとも自殺したともいわれています。



 清の第3代皇帝の順治帝 (じゅんちてい) は北京に入り約300年にわたる清の中国支配がはじまりました。


 この清の中国支配が良かったのかそうではないのかはさまざまに意見が分かれるところでしょう。



 次の第4代の皇帝である康熙帝 (こうきてい) は中国史上最高の名君であるという意見もあります。



 そしてその後、雍正帝 (ようせいてい) 乾隆帝 (けんりゅうてい) にいたる約100年は黄金時代として清は大いに栄えました。



 しかし、中国の大多数の民族である漢民族は、満州民族独特の髪型であるべん髪を強制されたり、清朝末期にはアヘン戦争や日清戦争をはじめとする多くの悲劇にも見舞われています。



 ただはっきりしている事実は、呉三桂はまもなく康熙帝によってつぶされているということです。


 公平な目で見てもこの当時、中国の民衆から最も支持されていた人は李自成だったと考えられます。




 多くの民衆である貧しい農民の立場に立ち、土地所有における平等を堂々と主張しました。

 一瞬ではありましたが、中国国民の差別からの解放をなしとげかけたといえるでしょう。




 不運だったのは差別者である呉三桂と清軍の武力が強力すぎて、とてもかなわなかったということでしょう。




 僕は李自成の純粋な生き方には共感できるものがあると考えています。




 あまりにもストレートに正面からぶつかって、力でねじ伏せられたことが惜しまれますが、長く人々の心に残る人物の一人だと思います。