2 ガリレイ (1564年~1642年)




~学問の自由のために権力と闘ったイタリアの物理学者~




 「それでも地球は動いている」



 これはガリレイが直接言った言葉ではありませんが、彼はこの内容の信念をもって、終生学問の自由のために宗教的権力と闘い続けました。



 「近代科学の父」 とよばれるイタリアの大物理学者です。



 月や惑星についてのさまざまな発見のほか、振子の等時性や慣性運動の原理を発見しました。

 特に慣性運動の原理は、後にニュートンが発見した万有引力の法則のもとになった考え方です。



 「やっぱりコペルニクスの地動説は正しい」



 ガリレイは、自ら作った望遠鏡で天体を観測し、地動説の正しさを証明しました。

 コペルニクスは、キリスト教会からの迫害を避けるため、地動説を書いた本の発刊は彼の死が迫ったときになされたのでした。



 ガリレイは教会から地動説の撤回を命じられましたが 「科学と宗教は違います」 と反論しました。



 1632年、10数年の年月をかけて「天文対話」という本を書いて、地動説の正しさを再び説きました。

 これに対して当時のキリスト教会は「地動説は聖書にそむく考えであり誤りである。



ガリレイよ、このような考えをすてることを命ずる」と迫りました。



 何かこっけいですね。



 21世紀を生きる僕たちから見れば、誤っているのは教会の方であることが自明であるからです。

権力とは本当に恐ろしいものだということを、まざまざと見せつけられる出来事だと思います。



 ガリレイの言うとおり、科学と宗教は違うのです。

宗教的な信仰を否定する必要はありませんが、学問としての科学的な事実は、分けて考えるべきでしょう。



 そしてついに宗教裁判に発展します。

ガリレイはローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えたという理由で有罪となってしまいました。



判決は終身刑です。



 その後、監視つきの自宅軟禁に減刑されました。


それでもフィレンツェの自宅へ帰ることは許されず、監視つきの住居に住まわされ、78歳で亡くなるまでの8年間、散歩以外の外出を禁止されました。



 この宗教裁判は、正しいことをしている人間に対する人権侵害になっていることは明らかですね。


二度とあってはならないことだと思います。



 教会の執ような人権侵害は、ガリレイの死後も続きます。



 遺族は葬式で弔辞を読むことも許されず、ガリレイ自身は、一族の墓に葬られることも許されませんでした。

 周囲の人はガリレイが異端者として葬られるのは忍びない、とローマ教皇の許可を待って葬儀を延期しました。



 正式に葬られたのは、何と100年後のことです。



 その間ガリレイの遺体は教会の隅っこにある小部屋に墓碑銘もないままに葬られていました。



 1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレイの無罪を正式に認めました。

 ガリレイの死後350年がたってからのことでした。



 この数字はいったい何を物語っているのでしょうか。


 学問も宗教も、どちらもとても大切なものだと思います。



 しかし正しいことを言っているのに、350年も有罪というのは何とかならなかったのかと考えるのは僕だけでしょうか。



 ガリレイはとても勇気のある人だったと思います。



 度重なる人権侵害に耐え続けました。

 当時の権力者からの支配と差別を執ように受けながらも、科学という学問の自由をめざして闘い続けたのです。



 この勇気ある生き方は、400年近くたった現在でも世界中の多くの人々の共感をえることができるでしょう。
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1 ルター (1483年~1546年)



~信仰の自由のために権力と闘ったドイツの大学教授~



 宗教改革の発端になった人物として有名ですね。



 ルターは1483年、ドイツ (当時は神聖ローマ帝国) の鉱山の町アイスレーベンで生まれました。


 大学で法律の勉強をしましたが、22歳のとき雷雨にあったことをきっかけに修道院に入り、2年後に司祭に任命されました。



 その後ビッテンベルク大学で神学と哲学の講義を受け持ち、さらには神学博士の位を授けられて大学教授になった人物です。



 実はルターは27歳のときにローマへ行ったことがあり、そのときすでに聖職者たちの堕落した姿に失望しています。



 「くさっている。儀式ばかりはなやかで礼拝は形だけ。

 聖職者たちはみんな金もうけのことばかり考えている。



 サン・ピエトロ寺院の建設も、教皇の力を示すためなのか。

 何てことだ。」



 そしてついに1517年、ビッテンベルクの教会の扉に 「95か条の論題」 を貼りつけました。



 論題の内容例をあげると、たとえば以下の内容になります。


 「キリスト教の信者は、真に自分自身に信仰があれば、免罪符など買わなくても罪は許されるはずだ。」



 「もしサン・ピエトロ寺院を建てたいのなら、貧しい信者からお金を集めなくても、教皇自身のお金で建てればよい。」



 あっという間に話題をよび、2週間後には神聖ローマ帝国じゅうに、1か月後にはヨーロッパじゅうに知れわたりました。



 宗教改革のはじまりです。



 ルターを殺そうとする人たちも出て、ローマ教皇も彼をローマに呼びだそうとしましたが、ルターを支持する貴族や皇帝が反対したのでできませんでした。



 そこで、神聖ローマ帝国内でルターに忠告を与えることになりました。

1518年9月、教会の取り調べのためにアウグスブルクに呼び出されました。



 教会は発言のすべてを取り消せ、教皇を敬えの一点ばりです。



これに対して、ルターは言葉で闘い続けました。



 彼の主張は次の3点です。




 (1)教皇や僧侶の権限が聖書や教会を支配しているのはいけないことだ。


 (2)カトリック教会の儀式は洗礼など一部を除いてやめるべきである。


 (3)キリスト教の信者は自由である。




 教会側の権力者たちは何度もルターに圧力をかけて、彼の主張を取り消そうとしましたが、決して屈しませんでした。

そしてローマ教皇は、ついに最後の切り札を出してきました。



 「破門」 です。



 これに対してルターの行動は 「神の名においてこの波紋状を破る」 でした。



 教皇の波紋状はルターによって燃やされました。

教皇の権力による支配をはねつけた瞬間であり、この行動には賛否両論があったことは言うまでもありません。



 ただ、当時の教会はイエスやペテロの時代に比べて、権力者が強い支配権をもち、宗教的身分による差別がかなりあったと考えられます。




 イエスもペテロも神の前の平等を大切にしていたはずです。


 それなのにカトリック教団の権威を利用して、農民に圧政をしく貴族も多くいました。




 中には領主の言いなりになることが神の意にかなうことだ、という者までいました。




 僕はルターの行動は、そうした差別からの解放の第一歩になったのではないかと思います。




 信仰の自由をこよなく愛し、多くの人々に問題提起をしたことは、数百年たった現在にも大きな影響を残しています。

4 宗 江 (そうこう) (生没年不明)




~腐敗しきった権力に立ち向かった水滸伝の英雄~




 水滸伝 (すいこでん )という中国の歴史小説が、多くの人々に人気があるのはなぜでしょうか。

 もちろん、おもしろいからです。



 ただ、僕はそれだけでないと考えています。



 一般庶民の立場に立って本音が余すことなく描かれ、読者は自分たちのこととして共感できる部分がたくさんあるからだと思います。



 その水滸伝の主人公のモデルになった人物が宗江 (そうこう) という歴史上実在した人物です。



 舞台は今から約900年前、中国北宋 (ほくそう) の末期で8代皇帝徽宗 (きそう) が支配していた時代です。



 日本では平安時代の終わり近くにあたります。

 ただ残念なことは、宗江に関する正確な史料が極めて乏しいことです。



 宋の時代の歴史を書いた 「宋史」 に、宗江という人物が36人をひきいて反乱をおこし、政府軍もその勢いに恐れをなしたという短い記録が残されています。



 生没年もいまだに不明のままです。


 当時の支配者にとっては、よほど都合の悪い人物だからこうなったのですね。



 でも、僕はあえてこの宗江に、歴史上の人物として光をあててみたいのです。

 水滸伝は小説なので、歴史上の事実から見ると誇張や創作が多くなるのは言うまでもありません。



 しかし、そこには一般庶民の本音と希望が、生き生きと描かれていると考えられます。



 支配者側からの歴史にはあまり取りあげられませんでしたが、権力に苦しめられていた庶民の側の歴史が、小説というものに形を変えて、語り伝えられているのです。



 この時代を支配した徽宗は芸術の感覚にすぐれ、風流天子とよばれていました。

 しかしぜいたくが好きで、政治的には失政が多く、後に北宋の国を滅亡へと導くことになります。



 蔡京 (さいけい) をはじめとする取り巻きの役人たちも、自分の出世が優先で、庶民の生活をないがしろにしていたため、たくさんの人々が苦しんでいました。



 たとえば花石綱 (かせきこう) というのがありました。



 宮中の庭園用に江南地方の珍しい樹木や石を集めたとき、その御用船団につけた名前が花石綱です。



 重い石を運ばされた農民たちの重労働はもちろんですが、ただ飾りのための大きな石を川の船で運ぶとき、橋がじゃまになったので橋をこわしたということも伝えられています。



 これに対して宗江は親孝行で情け深く、人の危機を救ったり、困っている人にお金を貸したりするなど、人望の厚い人物でした。



 武芸にも通じ、日ごろから天下の豪傑たちと親しく付き合っていたそうです。



 身分の低い役人でしたが、友人のケンカの仲裁で遅刻したり、罪をおかした兄弟分を裏口から馬を用意して逃がしたこともあったといわれています。



 彼を知る人は、宗江のことを 「及時雨」 (きゅうじう)、つまり 「恵みの雨」 と呼んでいました。



 宗江は人々から望まれて梁山泊 (りょうざんぱく) という無法者の軍団のリーダーにおされ、36人の豪傑とともに政府軍と戦いました。



 勝利の快挙は何度もありましたが、最終的には政府軍の武力の前につぶされました。


 僕はこの反逆者たちの反乱を、あえて一般庶民たちの解放運動ととらえたいです。



 理由は、現在でも 「無法者」 とよばれた彼らは、広く中国の国民に支持されているからです。



 水滸伝の後半、約50章は梁山泊が政府と和解し、官軍として遼 (りょう) という隣の国と戦ったり、各地の反乱を平定して活躍した記述がありますが、これは史実ではありません。



 でも、むしろこれはこういう生き方もあったのではないか、という作者の建設的な意見だと考えてはどうでしょうか。



 正面からの戦いだけでなく、こんなやり方もあっていいのではという庶民の願いの一つの表れかもしれません。



 一般民衆の立場から中国史を見れば、宗江こそ魅力ある英雄だったのではないでしょうか。

3 玄 奘(げんじょう) (602年?~664年)




~皇帝からの差別を乗り越え一途に生きた唐の天才~




 三蔵法師 (さんぞうほうし) という名のほうが、むしろよく知られていますね。


 玄奘 (げんじょう) は孫悟空 (そんごくう) で有名な 「西遊記」 に登場する三蔵法師のモデルになった人物です。



 彼の姓名は陳い (ちんい) といい陳家は代々学者であった家の出身でした。

 13歳のころ出家しましたが、玄奘は一度講義を受けるとたちまちその内容を理解したといわれるほどの天才児でした。



 出家をしてから修行を続けていくうちに、玄奘は中国語に訳されていた仏教の経典が、正確ではないということに気がつきました。



 自分が絶対に正しいと信じて疑わなかった中国語の経典に、疑問をもつようになったのです。

 この疑問を解決するためには、仏教の原典に接するしかありません。



 そのためには、仏教が生まれた国である天竺 (てんじく) つまり現在のインドへ行くことが必要になるのです。


 天竺へ行くためには西域の気の遠くなるような熱い砂漠や、凍るような寒くて険しい山脈を越える旅が待っていました。



 まさに命がけの旅となるでしょう。



 玄奘は死を覚悟して、仏教の正しい経典を持ち帰るために皇帝にこの旅を申し出ました。


 当時の皇帝は唐の第2代目、太宗・李世民 (たいそう・りせいみん) でした。



 彼の治世は 「貞観の治」 (じょうがんのち) とよばれ、唐の黄金時代を築いたすぐれた皇帝として、世界史上広くその名を知られています。



 しかし、太宗は若い僧である玄奘を見下します。



 国禁ということで、玄奘の願いを認めませんでした。


 皇帝の権威の方が優先だったのですね。



 玄奘はあきらめずに突っ張ります。



 「町や制度や軍隊を形だけ整えてもだめです。

 人々の心に正しい仏教の教えを広めてこそ、国はゆるがなくなります。」



 「正しい仏教を知れば皇帝陛下 (李世民) のお心も静まり、それを受けて国も平和になるでしょう。」


 しかし、何を言われても李世民は皇帝の権力で玄奘をねじ伏せ、旅を許可しませんでした。



 こうなると 「密出国」 しかありません。



 629年、玄奘はひそかに命がけで旅立ちました。

 唐の追手からのがれながら、心の中で玄奘は考えました。



 「民衆は飢えで苦しんでいる。

 皇帝は仏の慈悲に目覚めてください。

 戦争に勝つだけでは人々の心に本当の平和は来ないことに気づいてください。」



 実は、太宗・李世民は自分の兄と弟の2人を殺して皇帝の座に就いていたのでした。



 権力を握るために肉親を殺したのです。

 彼も心の隅に罪の意識をもっていたのです。



 それから17年後、玄奘は何度もくじけそうになりながら目標を達成し、天竺から唐の国へともどって来ることができたのです。



 さすがの太宗も感動し、今度は国禁を破った玄奘をあたたかくむかえました。

 ようやく玄奘の本気と純粋さ、仏教のすばらしさを認めました。




 「私と唐の国を救ってくれ」

 この言葉は当時の太宗の気持ちを良く表していますね。



 結局玄奘は、差別を乗り越えて、自分の信念を貫き通し続け、納得のいく人生をまっとうした人物といえるのではないかと思います。



 その背景には、仏の前に平等というシャカの教えがあります。


 権力者である太宗は、最初は玄奘を差別し、力で支配しようとしました。



 しかし、そのあまりにも一途な生き方に感動し、自分自身の差別心にも気づいたのかもしれません。



 玄奘のすばらしさは、苦労をしながら、ただ仏教を天竺から正しく伝達したすぐれた僧ということだけではないと思います。



 権力者からの差別を乗り越えた、その生き方にもっと光をあてると、僕たちはさらに学び生かすことができるのではないでしょうか。
2 ムハンマド (570年~632年)




~部族間の差別をなくし本質的平等に生きたアラビアの商人~




 ムハンマドは、現在のサウジアラビアにあるメッカという町で生まれました。

 当時はまだ国そのものがなく、人々は各部族ごとにまとまっていました。



 ムハンマドが所属する部族はクライシュ族という名門でしたが、彼は生前に父を失い、6歳のころには母も亡くしています。


 幼くして孤児になってしまいましたが、一族の中で商人としての経験を積み、25歳のときに40歳の裕福な未亡人ハディージャと結婚しました。



 二人の間には3男4女が生まれ、普通の一商人として生活していました。



 このころのアラビアでは部族間の争いが多く、負けた部族が勝った部族に皆殺しにされたり、奴隷にされるのは当たり前のことでした。



 奴隷はもちろん人間扱いされず、権力者の要求する仕事ができなければ、暴力をふるわれていました。


 このような歴然とした身分差別の中で、ムハンマドは悩み考えます。



 「富はおそろしい。

 富をもつ人の心ほど冷たく荒れはてていく。


 メッカの貴族たちは金もうけに夢中になり、神の言葉に耳を傾けることを忘れている。

 この乱れた世の中をどうしたらよいのだろう。」



 さんざん悩んだ末610年、ムハンマドは貧しい人々や奴隷などの、被差別の立場に立ちます。


 自分はひとりの人間にすぎないが、差別をなくそうとしてアッラーの神のもとの平等を説きました。



 40歳になった彼は、メッカ郊外のヒラー山でアッラーの神の啓示を受け、預言者としての自覚をもつようになったといわれています。



 これが有名なイスラム教の始まりです。



 しかし、イスラム教は初めのうちは、なかなか人々に受け入れられませんでした。



 「すべての人は本質的に平等」

 という考えは、現在では基本的人権の一つとして世界で広く認められています。



 しかし、当時のアラビアの富裕層や権力者たちからは、自分たちの地位を脅かす一種の危険思想ととらえられ、やがて弾圧の対象となりました。



 ムハンマドの布教は命がけの仕事でした。



 メッカの古い宗教を信仰する人々から命をねらわれたのです。



 迫害が日ましに激しくなったのでメッカの町から離れ、アラビアの各地からメッカに巡礼に来る人々のテントをたずねて教えを説くようになりました。



 さらに622年9月22日には、ムハンマドの母の生まれ故郷であるヤスリブという町に移動しました。



 イスラム教ではこれを聖遷 (ヒジュラ) とよび、この年がイスラム暦元年とされました。

 後にヤスリブはメジナ (預言者の町) とよばれるようになりました。



 632年にムハンマドが亡くなったのもこの町です。



 その後何度かの戦いがありましたが、結局イスラム教はアラビアの多くの人々に受け入れられました。


 イスラム教では階級や民族の差別をせず、僧侶階級も存在しません。



 指導者も質素な服装で、ぜいたくをしたりいばったりせず、異教徒であるユダヤ教徒やキリスト教徒の信仰も認め、奴隷にしませんでした。



 ムハンマドが亡くなるときの最後の言葉です。



 「この世に平和を、すべての人々の心に平安を」



 イスラム教徒であろうとなかろうと、ムハンマドの生き方にはとても共感できるところがあると思いませんか。


 これらのできごとの背景には、反差別の考え方があります。




 部族間の差別をもとにした争いや、人間扱いされない奴隷をなくして平和をめざしたのです。


 この人間の心を大切にした平等な考え方が、多くの人々に受け入れられたのですね。




 現在でもその影響は大きく、世界史上忘れるべきでない人物の一人だと僕は思います。