1 陶淵明 (365年~427年)



~桃源郷の夢を追い続け自由に生きた田園詩人~



 陶淵明(とうえんめい)は、中国の東晋 (とうしん) ~宋の時代に生きた人です。

 この時代は王朝の攻防が激しく、中国の 「南北朝時代」 にあたります。



 日本ではほぼ同じころ古墳時代であり、大和王権が勢力を持ちはじめています。


 彼は自分の子どもによく次のように話していました。



 「桃源郷 (とうげんきょう) は大昔の秦の時代に、始皇帝のきびしい政治をのがれた人々が作った、自由で楽しく暮らせる理想郷なんだ。


 今でもこの国のどこかにあるけれど、その場所はわからないんだ。」



 陶淵明は29歳から41歳までの13年間に、何度か役人として活動していました。

 しかし彼は、出世欲に駆られて役人になったわけではありません。



 貧困に耐えかねて、やむをえず家族を養うために役人になったのでした。

 桃源郷の夢を持ち続ける彼にとっては、いくら優秀でも役人生活はあまりにも理想とかけ離れていたようです。



 だから長続きせず、何回も就任したり辞めたりのくり返しでした。



 彼の最後の役人生活は、貧窮ぶりを見かねた親戚が紹介してくれた彭沢 (ほうたく) というところの県令でした。

 地位の割には給料が高く、他の条件も良かったのでしたが、わずか80日ほどで辞めてしまいました。



 理由は 「正装して上級役人の視察官にあうのが嫌だから」 です。


 「おい、えらい役人が見回りに来るぞ。せいぜいお世辞を言って気に入られようぜ。」



 他の役人たちの言葉です。



 陶淵明は、このごますりの言葉に愛想をつかしたのです。


 階級的身分差別を絵に描いたようなできごとですね。



 このような人たちに限って、一般民衆の前では威張りたがるのです。

 人をすぐ上下関係で見ようとする人たちです。



 現代に生きる僕たちの周りにも、心当たりになりそうな人がたくさんいますね。

 よく見ていると、必要以上にペコペコして、まるで 「米つきバッタ」 のようです。



 陶淵明の行動には、お金や地位、名誉よりも 「自分自身の生き方」 を大切にする信念がはっきりと現れます。



 405年、41歳で役人生活と完全にサヨナラした彼は、ふるさとへ向かいます。



 お金のために上級の役人にへつらって窮屈に生きるより、たとえ貧しくても、ふるさとの田園で 「自由に自分らしく生きたい」 と考えたのでした。



 このときにつくった詩が有名な 「帰去来の辞」 (ききょらいのじ) です。



 高校の漢文の授業で、よく学習されているこの詩の大まかな意味は、次のようになります。



 「さあ帰ろう。 ふるさとの田園はきっと荒れかけているだろう。 帰らずにおられようか。」



 その後彼は、こうよばれるようになりました。



 「対等な人間関係」の仲間を大切にし、のびのびと農作業をしながら、田園生活や酒をテーマにしたすぐれた作品を次々 
に作る 田園詩人」




 本音で、互いに言いたいことが言い合える人間関係って、本当にいいですね。



 さて、陶淵明と同じ時代を生きた知り合いに、劉裕 (りゅうゆう) という人物がいます。



 劉裕は陶淵明とは対照的な生き方をしました。



 「出世を第一」 として誠心誠意努力し、東晋の実力者になりました。



 420年、彼はついに皇帝にまでなり、南朝の王朝の1つである宋を建国しました。

 中国の歴史上に名を残す大出世といえるでしょう。



 ところが422年、あっけなく死んでしまったのです。

 皇帝に即位してからわずか2年後のことでした。



 ふるさとの田園で農作業を終えて、仲間とともに楽しく語り合っていたときに、陶淵明はこの事実を知りました。



 「劉裕の命は、皇帝になってからたった2年だったのですか。

 あんなに元気よく頑張っていたのに、あっけないなあ。


 それより飲もう飲もう!歳月人を待たず」



 時間や月日というものは、人間の都合に合わせて待っていてくれません。



 「やりたいときに自由にやりたいことができる」

 このことは、人間にとってとても大切なことだと思います。



 明日、自分が生きているなどという保障はどこにもないのです。



 「農民」 兼 「田園詩人」 として自由に生きた陶淵明。



 彼こそ、理想郷である 「桃源郷」 を、自らの手で作り上げた人ではないでしょうか。



 彼の生き方に共感できるものがあると感じるのは僕だけではないと思いますが、いかがしょうか。

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3 張 角(ちょうかく) ( ? ~184年) 




~平等な中国をめざして立ち上がった農民の指導者~




 日本では弥生時代の後半にあたるころ、中国では後漢という王朝が栄えていました。

 この後漢の末期に黄巾の乱 (こうきんのらん) とよばれる内乱がおこりました。



 この黄巾の乱の指導者が張角 (ちょうかく) です。



 歴史の専門家の方々の中には、張角をあやしげな宗教の指導者で、国を乱した者というふうに捕える方もいらっしゃいます。



 でも僕は、当時の中国の多くの国民の立場に立つと、


 「平等な中国をめざして立ち上がった農民の指導者である」


 という考え方があってもよいのではないかと思います。



 高校の世界史の教科書では、 「黄巾の乱」 と書かれていますが、これは支配者に都合のよい言葉で、僕は大多数の国民の立場から 「黄巾の解放運動」 とよびたいのですがいかがでしょうか。



 このころの後漢の朝廷内では、去勢された男性で皇帝のそばに仕えた宦官 (かんがん) や、皇帝の母方の親戚である外戚 (がいせき) が権力争いをくりかえし、自分たちに都合のよい政治を行おうとしていました。



 国民のことを考えていたのでしょうか。



 皇帝は無力で、幼い皇帝が連続的に即位していました。



 大多数の国民である農民はというと、洪水や日照りの害が次々に起こり、飢え死にする人々が道ばたにあふれているというありさまでした。



 このような中で184年、張角は農民とともに立ち上がったのです。



 彼は 「太平道」 という宗教の首領でもありました。



 太平道は道家の思想をもとに、いろいろな民間信仰を取り入れた、当時の新しい宗教でした。



 彼は黄天の神 (公平な神) を信仰していました。

 この黄天の神に自分の罪を告白することで誰もが救われると説いたのです。



 また、病気の人には無料で治療をほどこしたため、貧しい農民などの信者が増えました。



 張角の言葉には説得力があります。



 「われらがめざすのは、すべての人々が互いに助け合って生きる平等な社会を実現させることだ。」



 農民たちは、多くの自然災害と、後漢末期の政治のもとで苦しんでいたので、太平道教団にはたくさんの人々が参加しました。



 人数は数十万人にも達したといわれています。



 黄巾というのは黄色い頭巾のことで、彼らが立ち上がるとき、仲間の目印としてつけていたのでした。

 頭巾の黄色は太平道の神、すなわち黄帝 (こうてい) を表しています。




 ここで注目するべきことは、この戦いには 


 「信者でない者も加わっていた」


  ということです。




 なぜでしょうか。




 このことは少なくとも、一部の宗教者だけのできごとではないことを意味していると考えられます。




 このできごとは結局、後漢王朝が滅亡するきっかけになったことは歴史上の事実です。



 最終的には次の三国時代の英傑の一人である曹操 (そうそう) の息子に帝位がゆずられて魏王朝 (ぎおうちょう) がおこります。



 三国時代は劉備 (りゅうび) や孫権 (そんけん) 諸葛孔明 (しょかつこうめい) など、さまざまな英雄たちの物語があり、おもしろいですね。



 しかし、権力者が交代して次の権力を奪い合って、またしても戦乱をくり返したという見方もできます。



 人間としての基本的人権の視点からこの時代の中国史を見て、一般庶民の立場に立てば、本当の英雄はいったいだれなのでしょうか。



 張角は大多数の国民である農民の立場に立って、平等を求めて権力者たちに立ち向かいました。



 ただ惜しまれることは、正面からの武力という、あまりにもストレートな戦いだっただけに、訓練された権力者たちの武力にはかなわず、戦死していまいました。



 しかし、彼の太平道は後の道教のもとになりました。



 その後道教は発展し、現在にいたるまで、中国に大きな影響をおよぼし続けているのはなぜなのでしょうか。
2 ペテロ ( ? ~64年) 



~外国人差別を解放した初代ローマ教皇~




 イエス=キリストの直接の弟子は、全部で12人いました。

 その中で最もイエスと関係深い人物はペテロだと思います。



 生前のイエスを深く敬愛し、多くの行動を共にし、直接教えを受けて、正しく伝道した人物ではないでしょうか。

 彼は初代のローマ教皇といわれています。



 現在まで250代以上の、実に多くの人物が就任しているローマ教皇は、このペテロの後継者という位置づけになっています。



 イタリアのローマ市内にある、バチカン市国のサン・ピエトロ聖堂には、現在もローマ教皇が住んでいます。

 この聖堂はペテロの墓の上に建てられています。



 ペテロは、たとえばイエスのこんな言葉を伝えています。



 「イエスはいわれた。

 目には目をという考えはおすてなさい。



 あなたの敵を愛しなさい。

 あなたを苦しめる者のために祈りなさい。



 左のほおをぶたれたら、右のほおをさしだすのです。」




 何と愛に満ち満ちた考え方でしょう。




 そこに恐ろしいほどの強さを感じるのは僕だけでしょうか。




 またペテロは、キリスト教を禁止していた当時のローマ帝国の役人に捕えられそうになったときに、恐れおののいている信者たちを前にこう言っています。




 「うろたえるでない。

 イエスさまはいわれた。

 剣によって立つものは剣によって滅びると…。」




 このことが事実であることは、その後の数々の世界史が見事に証明していますね。

 力によって立つものが、力によって滅ぼされたという事例は枚挙にいとまがありません。




 現在、権力ではばをきかせている人たちも、いつか権力によってつぶされるときが来るのでしょうか。




 当時のユダヤ教では、ユダヤ人が外国人と食事をすることは律法で禁じられていました。

 このことを仲間から指摘されたとき、ペテロはこう答えました。




 「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは律法にかなわないことです。



 しかし神はわたしに幻を示して、外国人だからといって区別をしてはならないと教えてくださいました。

 どこの国の人でも、神を信じる正しい人ならば神に受け入れられるのです。」




 これは 「外国人差別」 から解放される、ペテロの大事な考え方だと僕は思います。




 しかし、ペテロが生きた時代も、権力者たちはキリスト教を迫害しました。


 その代表人物は、ローマ帝国屈指の暴君として有名なネロ帝ですね。



 キリスト教徒たちを捕えてライオンのえさにしたり、ローマの町を火事で焼いてキリスト教徒のせいにしたり、火あぶりの刑で殺したりするなど、おそろしい迫害を次々に繰り返しました。




 やりたい放題です。




 キリスト教徒たちは、この迫害を逃れるために地下にカタコンベという集会所をつくり、密かに信仰を続けて礼拝をしていました。




 ネロ帝の命令により、ペテロもついに捕えられてしましいます。



 彼はイエスと同じように、取り乱すことなく捕えられたと伝えられています。

 純粋な信仰の強みを持っている人だからこそできることなのかもしれません。



 ただペテロは処刑されるにあたっては、イエスと同じ姿で十字架にかけられることを拒み、逆さで処刑されたといわれています。



 後に、処刑をしたネロ帝は国内の反乱に悩み、最後は自殺に追い込まれています。



 剣によって立つものが、剣によって滅びた瞬間です。



 結局、歴代のローマ皇帝がいくら迫害をくりかえしても、信者は減るどころかどんどん増え続けていったのですね。

 そしてついに313年、コンスタンティヌス帝により、ローマ帝国でキリスト教が公認されました。




 ペテロは常に多くの貧しい人々の立場に立ち、差別から解放される生き方をしていたのです。



 魅力ある生き方だからこそ、たくさんの信者がふえ続けたのではないでしょうか。


1 イエス (前4年~30年)




~愛と平等に生き民族差別を解放したユダヤ人~




 世界中であまりにも有名なイエス・キリストですね。



 キリスト教の信者であろうとなかろうと、世界史上の傑出した人物の一人として、基本的人権の視点からも、とても考えさせられることが多い生き方だったのではないでしょうか。



 彼の生没年は推定ですが、短い生涯だったといわれています。

わずか30数年の若さで、十字架にかけられて処刑されました。



 しかし、彼の教えはキリスト教という世界最大多数の信者をもつ宗教として、現在でも広く世界に大きな影響をおよぼしています。



 彼は紀元前4年頃、現在のイスラエルでユダヤ民族の子として生まれました。

父はヨセフという名の大工で、母はマリアとよばれる女性です。



 イエスはユダヤ教のもとで育つのですが、成長するにつれ疑問をいだくようになります。



 当時ユダヤ教の 「パリサイびと」 とよばれる学者たちが宗教上の権力をもっていました。

 その権力のもとでお金や地位が大事にされ、弱い者がいじめられる社会が形成されていると感じたのです。



 神殿に礼拝するにも現金が要求されていました。



 「お金のあるなしで人を区別するなんて。

 苦しい生活をしている人は、それならどうすればいいのだろう。



 パリサイびとの教えは貧しい人々にとって何の役にも立たない。」



 イエスは祭司やユダヤ教のパリサイ派の形式主義を批判し、貧富の区別なくおよぼされる神の絶対愛と隣人愛を説きました。



 そして世界中のすべての人に神の救いは必要で、神の前ではすべての人が平等であると説きました。



 しかし、この考え方は当時のユダヤ教の学者たちを中心に、大きな反発を招くことになりました。

 「ユダヤ人以外の人間に神の救いなどないわ!」



 では、それ以外の人間はいったいどうすればよいのでしょうか。



 ユダヤ人だけが救われるとしていたユダヤ教は、イエスの教えとことごとく対立しました。



 ユダヤ教団から憎まれたイエスは、ローマに対する反逆者として総督ピラトに訴えられました。

 裁判の結果、死刑が確定し、イエスはエルサレムのゴルゴタの丘で、十字架にかけられてしまいました。




 権力とは恐ろしいものですね。




 磔(はりつけ)にされ、約6時間も苦しんだ末、命を落としたと伝えられています。


 この刑は、長時間にわたって苦しまなければならないので、最も残酷な刑といわれています。




 イエスが亡くなっても、その教えを信仰する人は、減るどころか増える一方でした。


 彼の生前の愛に満ちた言葉の一つに、次のようなものがあります。




 「今悲しんでいる人は必ずなぐさめられる。

 あなたたちは世の光だ。



 その光をほかの人にも分けてあげなさい。

 あなたがしてほしいことを人にしてあげなさい。」




 とても説得力のある言葉ですね。




 イエスは敵をも愛する愛敵の精神で、非暴力の抵抗を貫き通しました。




 僕はこの 「非暴力の抵抗」 こそ、現在および将来にわたっても、さまざまな逆境の場面で活かせる生き方の一つだと考えています。


 
 このイエスの愛敵や非暴力の抵抗という教えから大きな影響を受けた人が東洋にもいます。

 インドのガンジーです。




 彼は後に、インドをイギリスから独立させる中心人物になる人として世界史上あまりにも有名です。

 またアメリカのキング牧師も大きな影響を受けた人の一人です。




 彼も白人と黒人の人種差別をなくす公民権運動で活躍した黒人として、世界中にその名を知られています。




 僕はキリスト教の信者ではありませんが、イエスの教えにとても共感できるところがあります。




 時代も国境も宗教も越えて、多くの人々を差別から解放し、その教えは現在も世界中で脈々と生き続けています。