6 スパルタクス ( ? ~前71年)




~自由のために命をかけて戦った古代ローマの奴隷~




 紀元前1世紀頃のイタリアは、奴隷制の最盛期でした。

 大土地所有のもとで農業に従事する奴隷、家事をする家内奴隷、医療に当たる奴隷。



 さらに、家庭教師を務める奴隷、剣闘技に命をかけなければならない奴隷である剣奴など、社会のいたるところに奴隷が存在しました。



 こうした奴隷たちは、ローマの征服地であるガリア (現在のフランス) やゲルマニア (現在のイギリス)、 トラキア (現在のルーマニア) などから、大量に連れてこられた人たちだったのです。



 まさに身分差別という、人権侵害の宝庫とも呼べるような状態でした。



 スパルタクスはトラキア出身の兵士でしたが、訳あって捕らわれの身となり、ナポリの北約30kmのカプアというところの剣闘士養成所に入れられていました。



 剣闘技はローマで人気のあった見世物で、奴隷の死をかけた真剣勝負が行われていました。



 人間扱いされていなかったのですね。



 ローマの有力者は、市民に剣闘士の見世物を提供して楽しんでもらい、保護者としての自分を認めさせていました。

 スパルタクスはこの剣闘士の中でも、特に強くて人気のある人物になりました。



 しかしいくら人気があっても、スパルタクスの心は満たされません。



 「いくらほめてくれても、所詮あいつらはおれたちを人間だとは思っていないのだ。このまま死んでたまるか。」



 こう思い続けた彼は紀元前73年、ついに事件をおこします。



 世界史上 「スパルタクスの反乱」 と呼ばれている約2年にわたる奴隷たちの大反乱です。



 奴隷たちの軍は 「反乱軍」 と呼ばれていますが、僕は彼らの立場に立てば 「解放軍」 という言葉がふさわしいと思います。



 そして人権を踏みにじられ、被差別の立場の人々が、自由と平等をめざして立ち上がった 「解放戦争」 であると考えています。



 戦いはまず、カプアの剣闘士養成所の脱出から始まります。

 スパルタクスは78人の剣奴を連れて調理場から包丁と、やきぐしを奪って脱走したのです。




 最初はこの人数でしたが、次々と奴隷たちが加わり、剣奴だけでなく農耕奴隷や貧農も巻き込んで何と10万人にまでふくれあがったのでした。



 正規のローマ軍を相手に連戦・連勝したため、最初はローマ中が震え上がる大事件になりました。


 「我ら自身の自由のために戦おう」 というスパルタクスのスローガンには説得力がありました。



 彼は仲間と貧しさを共有し、略奪品を公平に分配するような人物でした。

 この戦いは、もともと剣奴たちが自分たちの生まれ故郷に帰ることが目的でした。



 紀元前72年の春、スパルタクスは奴隷を故郷に帰そうという考えから、北方への進軍を始めました。

 しかし、そこにはアルプスという巨大な壁が立ちはだかり、結局これを越えることはできませんでした。



 やむをえず南へ引き返してからは快進撃がストップし、当時の共和政ローマの事実上の支配者であり差別者である元老院の命令によって、進軍してきたクラッススとポンペイウスの軍に敗れて戦死しました。



 こうして奴隷というレッテルを貼られた 「人間たち」 の夢は、ローマ軍の武力によってつぶされてしまったのです。


 結局目的を達成することはできませんでしたが、その後、奴隷たちの待遇は少し改善されていきました。



 人間としての自由を求めて立ち上がったという面で、スパルタクスは世界史上の英雄の一人といえるでしょう。


 ただ、やり方が急で過激だったために、最終的には差別者も被差別者もともに痛い目にあってしまったのです。



 後世に生きる僕たちにとって、教訓になることがたくさんあるできごとだと思いませんか。
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5 司馬遷 (前145年頃~前86年)




~時の支配者にこびず人間を大切にした中国歴史の父~




 時の支配者とは前漢の最盛期を築いたことで有名な武帝です。


司馬遷 (しばせん) はこの時代を生きました。



 伝説の時代から、武帝時代までの紀元前の中国史を記した大作 「史記」 は、司馬遷が生涯をかけて完成させた不朽の名作として知られています。



 司馬遷は武帝のもとで、その父、司馬談 (しばだん) の太史令 (たいしれい) という歴史を記録する仕事を、後に受け継ぐことになります。



 しかし20歳のとき、司馬遷はそれまでの歴史の記録そのものに疑問をいだき、悩みます。



 「歴史とは、天下を治めた偉い人の名を後世に残すためだけのものなのか。

 いや、世の中には地位はなくとも郭解 (かくかい) のような立派な男もいるではないか。」



 郭解という人物はわかりやすくいえば当時のやくざ者です。



 確かに地位・名誉はありませんが、身近な人物どうしのトラブルがおきたとき、家柄や面目に流されず、公平に判断して解決できるような人物でした。



 郭解を知る人々からは、人徳者として慕われていましたが、「やくざ者」 という理由だけで、彼を軽蔑していた人が多数いたことも事実です。



 司馬遷は彼の人徳を認め、後に書きあげた中国史の大作 「史記」 に郭解を 「歴史上の人物」 として堂々と登場させています。



 武帝は前漢を代表する強力な皇帝で、周辺の諸国とも積極的に戦いました。



 若いころは、臣下たちの意見もよく聞いて良い政治を行おうと努力しましたが、晩年は、自分への批判などは一切許さない典型的な独裁者になっていました。



 自己顕示欲も強く、封禅の儀式 (ほうぜんのぎしき) も行っています。



 封禅の儀式というのは、中国で天下太平をもたらした聖天子のみができる儀式です。



 しかし、現実はかなり違うと司馬遷は見ていました。

 これは呪術 (じゅじゅつ) 好きの武帝の自己満足の儀式である、とバッサリ切り捨てています。



 この武帝から、司馬遷はとんでもない宣告を受けます。



 死刑を言いわたされたのでした。

 李陵 (りりょう) という人物をかばったことが武帝の逆鱗 (げきりん) に触れ、皇帝批判ということにされてしまったのです。



 このとき司馬遷は、まだ史記を完成させておらず、どうしても死ぬわけにはいきませんでした。



 こうなると死刑を受けるか、死刑よりももっと不名誉な刑である 「宮刑」 (きゅうけい) を受けるしかなく、過酷な二者択一に迫られたのでした。



 宮刑というのは男根を根元からバッサリ切り落とされる刑で、まさに恥をさらして生き伸びるようなものでした。



 男性であっても男性でなくなり、強い苦しみと多くの差別が待ちうけています。

 心身ともに大きな傷を負うでしょう。



 普通ならとても耐えられそうもありませんね。

 一例をあげれば、宮刑を受けた者は不孝者として、生まれ故郷の墓参りさえ許されませんでした。



 司馬遷は牢の中でさんざん悩み苦しんだ末、この宮刑を受ける決意をしました。

 そして苦しみと差別を乗り越えて、後に歴史書 「史記」 を完成させたのでした。



 僕はこの司馬遷の生き方に大いに共感できる部分があります。



 まず、武帝からの死刑という名の支配に屈しなかったこと。


 次に宮刑という名の暴力と、不孝者という名の差別を乗り越えたことです。



 そして武帝の気に入る歴史ではなく、多くの人間を大切にし、事実に基づいて歴史書を執筆しました。


 王や皇帝の記録だけでなく、本当に人々の心に残ってほしい歴史を書きあげたのです。




 この意味で、司馬遷は自分の意志を貫き、生きることと、著作の自由を獲得した人物といえるでしょう。

 
 記述内容も平等の扱いで、権力や地位で差をつけず、真実の歴史を書き続けました。



 2000年以上たった今でも、彼の生き方には大いに考えさせられものがあり、世界の人々の心に長く生き続けているのではないでしょうか。
4 グラックス兄弟 兄(前162年頃~前133年) 弟(前153年~前121年)




~貧しい人たちのために土地改革で命をかけた古代ローマの兄弟~





 グラックス兄弟は古代ローマの有力な貴族の出身で、母親は大スキピオ将軍の娘でした。

 ローマのめざましい発展の裏では、金持ちと貧しい者との差が歴然としていたという事実があります。




 兄のティベリウス・グラックスがローマの北方にあるエトルリアというところを通ったとき、彼は驚きます。


 そこにはイタリア農民の姿がなく、働いているのは外国人の奴隷ばかりでした。




 農地は一部の大土地所有者によって占有されていたわけです。



 厳然たる差別のために、小農民をはじめ多くの国民が苦しみ、一部の裕福な者たちがぜいたくな生活をしているという状態でした。



 つまり、一部の裕福な権力者たちと、大多数の貧しい国民という構造です。



 日本の奈良時代と似ているところがありますね。

 僕たちの日本の将来もこうならないようにしたいものですね。




 紀元前133年、ティベリウスが護民官に就任すると土地改革に乗り出しました。



 「大地主の土地を貧しい者に分け与えようではないか。

 そうすれば農民はもっとやる気になって作物をつくるだろう。



 たくさんの作物が取れればローマはもっと豊かになるでしょう」



 彼は大改革をすることにより、没落した小農民を復活させると同時に、国防を担った兵士を確保しようとしたのでした。



 法律で決められた面積以上の国有地を占有している地主から国有地を回収し、それを永代貸付農地として貧しい市民に分配しました。




 しかし、自分の土地を守りたい大土地所有者や、元老院議員らは猛反発しました。

 彼らはもう一人の護民官オクタウィウスに働きかけて、拒否権を発動させたのです。




 これに対してティベリウスは民会を動かして、農地法という法律を成立させて対抗しました。

 民会での可決は、元老院での可決と同等に扱われることになっていたからです。




 ローマ全体のことを考えて、貧しい人たちのために土地の権力者と必死に闘っているようすがうかがえますね。




 ところが、その後大きな転換点を迎えてしまいます。

 彼は翌年の護民官選挙にも立候補して闘いを続ける意思を表明してしまったのでした。



 これが命取りになってしまいます。

 当時の共和政ローマでは護民官の再選は認めておらず、明らかなルール違反になるからです。




 ティベリウスは王になろうとしているのではないかと非難され、改革の支持者までもが離れていきました。

 このような中で紀元前133年、民会会場に元老院勢力が乱入し、ティベリウスは殺害されてしまいました。




 結局、改革半ばで倒れてしまったのです。

 そらから9年後、弟のガイウス・グラックスも紀元前124年に護民官に就任し、兄の改革を受け継ごうと努力しました。




 ガイウスは騎士階級の支持をもとに、強い意志で最初から元老院との対決をあらわにしました。

 元老院の抵抗はすさまじく、戒厳令を発します。




 兄と同様に、貧しい人たちの立場に立って勇敢に闘ったガイウスは、結局同盟市に対するローマ公民権公布問題に巻き込まれ、最終的には自殺に追い込まれてしまいました。




 こうしてグラックス兄弟の改革は失敗に終わります。

 しかし、これ以後も彼らの主張を認め、彼らの遺志を受け継ごうという政治家が多数現れ続けました。




 同時にローマでは平民派と閥族派が長く対立を続けることになりました。




 多数の一般庶民が少数の権力者たちにいどんだ自由と平等をめざした闘いですね。



 国民の味方はグラックス兄弟であることは明白です。

 しかし、兄も弟も改革が少し急激だったことが悔やまれます。




 有力な貴族の出身でありながら、被差別の貧しい人々の立場に立ち、差別者である元老院や大地主と正面から闘い続けたグラックス兄弟。




僕は彼らこそ、共和政ローマの特筆するべき人物であると考えています。
3 陳 勝 ( ? ~前209年) 



~中国史上初の身分差別に立ち向かった農民~



 中国を初めて統一したのは、秦(しん)という王朝です。

 紀元前221年のことでした。万里の長城で有名な、あの始皇帝が治めていた王朝ですね。



 このころの日本は、まだ弥生時代にあたります。

 始皇帝は、強力な皇帝として知られていますが、その急激な改革と思想の統一は、多くの人々の大きな反感を買いました。



 また、大規模な土木工事は、農民たちの負担を非常に重くしていました。

 力でおさえつけていた独裁者が病死すると、すぐに大きな反動が起こります。


 紀元前209年に起こった陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)ですね。


 僕はこの事件は 「乱」 というよりも、被差別の立場にある貧しい農民たちが、自由を求めて新しい国を作ろうとした 「農民解放運動」 と呼びたいのです。


 秦には極めてきびしい法律がありました。


 土木工事や万里の長城の守りにかりだされていくのに、命令された期日に少しでも遅れると、どんな理由があっても死刑になるというものです。



 人間を人間と思っていないんですね。


 「どんな理由があっても」 です。



 大雨で土木工事の期日に到着することが絶対的に不可能であることを悟った陳勝は、仲間の呉広らとともに立ち上がったのです。


 「どうせ殺されるんなら死ぬ気で戦うしかない」


 最初は900人で始まったこの過激な解放運動は、ひと月のうちに数万人にふくれあがりました。大軍となって秦の首都咸陽(かんよう) に迫ったほどです。



 いかに多くの人々がこのきびしい法律を支持してなかったことがよくわかります。

 陳勝は 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 とよびかけて立ち上がりました。



 これは 「王侯でも将軍でも決して種(血筋)で決まるものではない」 という人間平等の主張です。

 みんな同じ人間だから 「生まれや家がらなどは関係ない」 と言っているのです。



 秦王朝を倒して新しい国をつくることをめざして自分たちが立てば、必ず後に続くものが出ると考えました。

 ちなみに競馬の世界ではどうでしょうか。



 競走馬(サラブレッド) の先祖はわずか3頭しかいません。

 その血筋からはずれた馬はすべて駄馬とされるそうです。 



 競走馬の世界は血がすべてなのです。


 人間は努力をすれば、いろいろなものになることができる可能性があるのですばらしいですね。



 ただし、日本においても例外があります。

 天皇がそうですね。



 僕たちはいくら努力しても天皇になることはできません。

 この背景にはいったい何があるのでしょうか。



 こうして始まった自由と平等のための戦いは、半年後に結論が出ます。



 賛同者は数十万人にも達しましたが、強大な秦の軍事力にはかなわず、鎮圧されてしまします。

 陳勝、呉広ともに味方の裏切りにあって殺されてしまいました。



 結局目標を達成することはできませんでしたが、秦王朝は大いに動揺し、それから7年後の紀元前202年、あっけなく滅びました。



 陳勝が考えた通り、後に続くものが出て、劉邦(りゅうほう) がおこした漢王朝にとって代わられるのです。

 そして人権史観の視点から見れば、この後もまた似たようなことが次々に繰り返されています。



 こう考えると、明らかな差別者は始皇帝を頂点とする秦の権力者たちですね。

 農民の立場に立てば、陳勝は身分差別に立ち向かった英雄といえるでしょう。



 ただ、あまりにも正面からストレートに突き進んだために、結局武力でつぶされてしまいました。

 ほかに、手段としての選択肢は考えられなかったのかが惜しまれます。



 たとえば国外に逃亡するとか、集団による交渉とか。

 もっとも死刑を前にそんな余地すらなかったのかもしれませんね。



 僕は高校の世界史の教科書や資料集などで、陳勝はもっと大きく取り上げられてもよい人物なのではないかと考えています。
2 シャカ (前560年頃~前480年頃)




~人間の平等を説き苦しみを乗り越えたインドの王子~




 仏教の開祖として世界中に知られている人ですね。


 本名はガウタマ=シッダールタといい、 「真理を悟った人」 という意味で ブッダ(仏陀) とも呼ばれています。



 シャカ(釈迦) はカーストと呼ばれるインド特有の頑強な身分制度を否定し、人間の平等を説いたことで身分差別に立ち向かった人でもあります。



 シャカは恵まれた高い身分に生まれています。

 シャカ族の小さな国の王子として、将来は国王になることを事実上約束されていました。



 しかし、 「太陽の光がバラモンの上にだけそそいでいるわけではないように、悟りの世界は差別などなく平等なのだ」  と考えていました。



 人からはうらやましがられるような立場でありながら、王子シャカは心が満たされず悩んでいました。



 国とはいっても、周りにはさらに強く大きな国がありましたし、いつ滅ばされるかもわからないという漠然とした将来の不  安もあったのでしょうか。


 彼は考え続けました。



 「戦いの勝者もやがて敗者となる。

 戦う者たちは、いつも敗北の不安におびえている。

 戦いとは何とむなしいものか。」



 「人間ならだれでも年をとり病気にもなり、やがていつかは必ず死んでいく。

 この自分も同じだ。


 世の中は苦しみだらけだ。

 人は苦しむために生まれてきたのだろうか?」



 シャカは19歳になると結婚し、美しいヤショダラ姫との間に、男の子ラーフラが生まれました。


 しかし、彼の悩みはなくなりません。



 「わたしが悩み苦しんでいては、シャカ族の人々を幸せにすることはできない。

 何とかしてこの苦しみを乗り越えなければ。」



 29歳、ついにシャカは、出家を決意します。

 王子の身分を捨て、ひそかに城を出ました。



 その後の6年間は、生命を失う覚悟で行った断食などで身体はやせ衰え、修業は壮絶を極めました。

 しかし、長い修行の中でもなかなか悟りを得られず、苦しみのどん底の中で次のことに気づきます。



 「きびしいだけではだめなのた。

 中ほどの道を進まなくては。」



 そして35歳、現在のインドのブッダガヤというところの菩提樹の下で座禅を組んでいたときのことです。



 ある日の明け方、まるで霧が晴れていくようにすべての悩みから解放され、静かに悟りを開いたといわれています。

 シャカは、主に以下のような内容に気がつきました。



 「すべての苦しみは自らがつくり出している。


 物事にはすべて原因があり、生、老、病、死の苦しみの原因は、いつまでも若くいたい、いつまでも健康でいたい、いつ  までも生きていたいという欲望だ。


 人生の苦しみを乗り越えるためには、欲望をすてなければならない」



 その欲望をすてるためには、この世が常に移り変わることを知り、正しくものを見、正しく考え、正しい道を進むことだ。」 



 また、シャカは次のような生き方を語りました。


 「過去を追うな。

 未来を願うな。


 過ぎ去った日をくよくよ考えるのはやめる。

 未来は自分の思うがままにはならない。 


 未来のために現在を犠牲にすることはやめ、今現在をしっかりと大事に生きることが大切だ」



 僕たち人間は、5年後、10年後はもちろん、明日でさえも確実に生きているという保障はどこにもありません。

 もしかしたら、今日が人生最後の日になるかもしれないのです。



 毎日が、その繰り返しですね。

 だから、今現在をしっかり生きることが大切だと思います。



 シャカはこうして苦しみを乗り越えることができました。



 差別者は、インドの第1の身分であるバラモン(僧侶)たちですね。

 シャカはクシャトリアという第2の高い位で、平民や奴隷を差別する側の身分でした。



 しかし、どんな高い身分、権力者、支配者でも真理を悟らなければ、誰でも自分から苦しみをつくり出し、拡大してしまうことに気づいたのです。



 僕たちが生きる現在にも、こういう人たちはあまりにもたくさんいると思いますがいかがでしょうか。



 人間の欲望は、いったんかなえられて満足しても、また新たな欲望が生まれ、生涯この苦しみを繰り返し、味わい続けることになるのです。



 僕も長い間、この苦しみを味わい続けてきました。



 欲望には限りがありませんね。



 差別心から解放され、欲望をすてることが人生には必要であることを説いたのです。

 シャカの考えはとても説得力があると思いませんか。



 後に、仏教という世界宗教に発展し、現在でも世界で数億人の信者がいます。



 仏教の信者であろうとなかろうと、彼のこれらの考え方は時代も国境も超えて、 「人間の生き方」 の指針の1つとして、世界史の中でも特に学ぶことが多い人物だと思います。