2019.04.25
おわりに
第4集 権力と心労に揺れた人々「日本史編」3uwl1b
おわりに
権力者には、常に問われていることがあります。
それは誰にために権力という名の「強制力」 を行使しているかということです。
一般民衆のために行使されるべきことであることは言うまでもありません。
人を強制する力は、社会全体には必要であると思います。
というのは、これがないと何でもかんでも自分勝手が横行し、収拾がつかなくなるからです。
あげくの果てに争いが起こり、血を見る戦いにまで発展することもあります。
こうなると人権侵害です。
野放しにすることはできませんね。
多くの人間が不幸になることは数々の日本史が証明しています。
だから、人権を守るためには、権力が必要不可欠になります。
日本国憲法の3本柱の一つ、基本的人権でいう「自由」 と「自分勝手」 は違います。
自分の自由を行使する前提条件として、他人の自由を尊重することが必要です。
「法の下の自由」 ということですね。
「自分勝手」 には、この必要最小限のルールが除外されているのです。
だから、平気で人に迷惑をかけることにつながるわけです。
「平等」 もそうですね。
何でもかんでも形だけ同じという意味ではありません。
「形式的平等」 ではなく、「本質的平等」 が大切になります。
表面から見ると一見違うように見えても、それは区別であって、実質的には平等になっていることがたくさんあります。
一例をあげれば、オリンピックで男女別に競技が行われ、その競技内容にも違いがあるのは、男女の本質的平等を具体化しようとしているからです。
決して形式的平等ではありません。
日本国憲法でいう平等とは、まさにこの本質的平等のことを言っているのです。
しかし、権威、権力というものが私利私欲のために行使されると、自由と平等を侵害することにつながります。
強制される側の人々が、権力者の権限の行使に納得している。
そして権限の行使を受ける人々のために使われればよいと思います。
ところが、権力者が自分たちだけのために人々を支配する道具としてよく使われるのが「差別」 です。
対等な人間関係であるはずの者どうしでも、過去から現在まで、至る所で使われています。
差別意識から解放された人はこの矛盾がよく見えますが、解放されていない人にはなかなか見えません。
差別意識から解放されていない人は、一度権力を手にすると手放すのが惜しくて、なかなか手放そうとしなくなります。
支配、強制される側からの支持を失ったら、潔く手放すべきなのに、それどころか攻撃を加えて逆に排除しようとします。
今回僕が書いた記事の中では、平清盛や後醍醐天皇がその典型的な例といえるでしょう。
国民のためというよりも、平氏のため、天皇を中心とした貴族のために、自分たちにとって都合がよいと思われることを次々にやっていますね。
そして自ら墓穴を掘っています。
平清盛は多くの武士たち、そして後醍醐天皇は多くの一般民衆からの支持を失いました。
権力を失う恐怖に脅え、心労に振り回された壮絶な人生だったと思います。
安心してゆったりとくつろげる時間など、ほとんどなかったのではないでしょうか。
このような生き方をしたいという人はあまりいないと思います。
一見強そうに見える権力者も、一皮むけば臆病な小心者であることが多いのです。
たった一度の人生です。
もっと自由に、もっと楽しく生きたいですね。
日本史上には、このことを先人の事例として学べる人物がたくさんいます。
僕が今回取り上げた80人は、その中のほんの一例にすぎません。
歴史はただおもしろいだけでなく、先人の生き方を学んで役立てるべきです。
僕のブログのテーマは「人間の生き方」 です。
これは過去から現在、そして将来にもわたる人類の永遠の課題でしょう。
僕は役立つ歴史とは、成功も失敗も含めて「人間の生き方」 が学べる歴史だと考えています。
これには自由、平等などの基本的人権の獲得が欠かせません。
他にも僕がまだ気づいていない、対象になる人物がたくさんいるのではないかと思います。
ぜひ教えてください。
そして共に学ぶことができたらすばらしいですね。
発行者 大川原英智
<訪問者の皆様へ>
このたびは、僕の記事をお読みいただき誠にありがとうございました。
日本史の人物エッセイとして、自分なりに一生懸命書いたつもりです。
何か一つでも、みなさんの人間としての生き方、歴史の見方、人権に関することに役立つことがあったら、とても嬉しいです。
第4集 権力と心労に揺れた人々「日本史編」 は、一通り完結しましたので、今回が最終号になります。
次回からは、第5集 差別意識からの解放「現代編」 として更新する予定です。
ここでお知らせいたします。
現在、第5集の記事配信に向けて準備中です。来週からといきたいところですが、本職の仕事もあり、少し長い時間がかかりそうです。
そこで、ブログ「差別と歴史上の人物」 の記事更新を一旦中断させていただきます。準備ができたら復刊の一週間前に予告としてのお知らせを配信し、その後正式に復刊したいと思います。
ただ、休刊中も応援活動だけは続けていきます。僕が読みたいブログや訪問してくださった方々のブログを中心に、拍手やポチ、コメントなどを積極的にしていきたいと思います。
また、僕が以前に公開した記事を読んでくださる方もいらっしゃいますので、休刊中もブログは閉じず、過去からの全部の記事をいつでも読めるようにオープンにしておきます。
今年度は特に忙しく1年前後はかかる見込みですが、また是非読んでいただけたら嬉しいです。
復刊後も引き続きご訪問をいただきたく、お願い申し上げます。
おわりに
権力者には、常に問われていることがあります。
それは誰にために権力という名の「強制力」 を行使しているかということです。
一般民衆のために行使されるべきことであることは言うまでもありません。
人を強制する力は、社会全体には必要であると思います。
というのは、これがないと何でもかんでも自分勝手が横行し、収拾がつかなくなるからです。
あげくの果てに争いが起こり、血を見る戦いにまで発展することもあります。
こうなると人権侵害です。
野放しにすることはできませんね。
多くの人間が不幸になることは数々の日本史が証明しています。
だから、人権を守るためには、権力が必要不可欠になります。
日本国憲法の3本柱の一つ、基本的人権でいう「自由」 と「自分勝手」 は違います。
自分の自由を行使する前提条件として、他人の自由を尊重することが必要です。
「法の下の自由」 ということですね。
「自分勝手」 には、この必要最小限のルールが除外されているのです。
だから、平気で人に迷惑をかけることにつながるわけです。
「平等」 もそうですね。
何でもかんでも形だけ同じという意味ではありません。
「形式的平等」 ではなく、「本質的平等」 が大切になります。
表面から見ると一見違うように見えても、それは区別であって、実質的には平等になっていることがたくさんあります。
一例をあげれば、オリンピックで男女別に競技が行われ、その競技内容にも違いがあるのは、男女の本質的平等を具体化しようとしているからです。
決して形式的平等ではありません。
日本国憲法でいう平等とは、まさにこの本質的平等のことを言っているのです。
しかし、権威、権力というものが私利私欲のために行使されると、自由と平等を侵害することにつながります。
強制される側の人々が、権力者の権限の行使に納得している。
そして権限の行使を受ける人々のために使われればよいと思います。
ところが、権力者が自分たちだけのために人々を支配する道具としてよく使われるのが「差別」 です。
対等な人間関係であるはずの者どうしでも、過去から現在まで、至る所で使われています。
差別意識から解放された人はこの矛盾がよく見えますが、解放されていない人にはなかなか見えません。
差別意識から解放されていない人は、一度権力を手にすると手放すのが惜しくて、なかなか手放そうとしなくなります。
支配、強制される側からの支持を失ったら、潔く手放すべきなのに、それどころか攻撃を加えて逆に排除しようとします。
今回僕が書いた記事の中では、平清盛や後醍醐天皇がその典型的な例といえるでしょう。
国民のためというよりも、平氏のため、天皇を中心とした貴族のために、自分たちにとって都合がよいと思われることを次々にやっていますね。
そして自ら墓穴を掘っています。
平清盛は多くの武士たち、そして後醍醐天皇は多くの一般民衆からの支持を失いました。
権力を失う恐怖に脅え、心労に振り回された壮絶な人生だったと思います。
安心してゆったりとくつろげる時間など、ほとんどなかったのではないでしょうか。
このような生き方をしたいという人はあまりいないと思います。
一見強そうに見える権力者も、一皮むけば臆病な小心者であることが多いのです。
たった一度の人生です。
もっと自由に、もっと楽しく生きたいですね。
日本史上には、このことを先人の事例として学べる人物がたくさんいます。
僕が今回取り上げた80人は、その中のほんの一例にすぎません。
歴史はただおもしろいだけでなく、先人の生き方を学んで役立てるべきです。
僕のブログのテーマは「人間の生き方」 です。
これは過去から現在、そして将来にもわたる人類の永遠の課題でしょう。
僕は役立つ歴史とは、成功も失敗も含めて「人間の生き方」 が学べる歴史だと考えています。
これには自由、平等などの基本的人権の獲得が欠かせません。
他にも僕がまだ気づいていない、対象になる人物がたくさんいるのではないかと思います。
ぜひ教えてください。
そして共に学ぶことができたらすばらしいですね。
発行者 大川原英智
<訪問者の皆様へ>
このたびは、僕の記事をお読みいただき誠にありがとうございました。
日本史の人物エッセイとして、自分なりに一生懸命書いたつもりです。
何か一つでも、みなさんの人間としての生き方、歴史の見方、人権に関することに役立つことがあったら、とても嬉しいです。
第4集 権力と心労に揺れた人々「日本史編」 は、一通り完結しましたので、今回が最終号になります。
次回からは、第5集 差別意識からの解放「現代編」 として更新する予定です。
ここでお知らせいたします。
現在、第5集の記事配信に向けて準備中です。来週からといきたいところですが、本職の仕事もあり、少し長い時間がかかりそうです。
そこで、ブログ「差別と歴史上の人物」 の記事更新を一旦中断させていただきます。準備ができたら復刊の一週間前に予告としてのお知らせを配信し、その後正式に復刊したいと思います。
ただ、休刊中も応援活動だけは続けていきます。僕が読みたいブログや訪問してくださった方々のブログを中心に、拍手やポチ、コメントなどを積極的にしていきたいと思います。
また、僕が以前に公開した記事を読んでくださる方もいらっしゃいますので、休刊中もブログは閉じず、過去からの全部の記事をいつでも読めるようにオープンにしておきます。
今年度は特に忙しく1年前後はかかる見込みですが、また是非読んでいただけたら嬉しいです。
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2019.04.18
第8章 明治以後 12 田中角栄
12 田中角栄 (1918 ~ 1993)3uwl1b
~実行力と金の力で出世して裁判で自滅した農家の二男~
「小卒でも首相になれる。
人間は学歴じゃない」
「約束したら、必ず果たせ。
できない約束はするな」
「借りた金は忘れるな。
貸した金は忘れろ」
戦後を代表する総理大臣、田中角栄の言葉です。
「戦後最大の首相」 とまで言われ、日中平和友好条約を締結しました。
自分の学歴に自信のない人に夢と希望を与えた人物でもあります。
しかし、彼の末路は有罪判決を受けた刑事被告人で裁判継続中の病死。
いったい彼の身に何があったのでしょうか。
1918年、角栄は新潟県刈羽郡(現在の柏崎市) で、農家の二男として生まれました。
父は牛馬商も営んでいましたが、事業に失敗してしまいました。
角栄は少年時代にして、極貧下の生活を余儀なくされています。
高等小学校在学中は勉学に優れ、ずっと級長もしていました。
卒業式では総代として答辞を読んでいます。
リーダーとしての資質は、すでにこのころから身についていたと考えられますね。
高等小学校を卒業すると、土木工事の現場で働きますが、1か月で辞めてしまいました。
その後、職を転々としながら、神田の中央工学校土木科の夜間部を卒業します。
しかし、当時の中央工学校は学制上の学校ではありませんでした。
この間、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員もやっています。
独立したのは1937年、建築事務所を起こしました。
43年には、田中土建工業を設立しました。
苦労して社長になった努力家だったのですね。
1914年、衆議院に当選。
以後、大蔵大臣、郵政大臣、通産大臣などを歴任し、1972年、ついに内閣総理大臣に就任したのです。
「日本中に新幹線と高速道路を作る」
「日本のすべての県に医学部を作る」
どんどん実行していきました。
35年ぶりに、日中国交正常化も実現しています。
常に大量の札が詰まった封筒を持ち歩き、金の力で人心を掌握していきました。
あまり知られていませんが、通称「人確法」 と呼ばれる法律も作っています。
「デモシカ先生」 という言葉をご存知でしょうか。
「先生にデモなるか、先生にシカなれない」 という意味で、教員は職業差別を受けて馬鹿にされていたのです。
給与が非常に安かったために希望者が少なく、教員採用試験もありませんでした。
免許さえもっていれば、誰でも試験を受けずになることができた職業だったのです。
田中角栄はここにメスを入れました。
これでは学校教育に適した人材を広く確保できない。
待遇を改善せよ。
これが「人確法」 です。
ところが、角栄は逮捕されてしまいます。
有名なロッキード事件です。
総理大臣の逮捕に日本中が大騒ぎになりました。
航空機の売り込みに関連して、アメリカのロッキード社から5億円の収賄を受けたというのです。
「よっしゃ、よっしゃ!」 と言って受け取ったとして、刑事裁判が始まりました。
一審判決は、有罪、そして追徴金5億円です。
これが彼の命取りになりました。
以後、死ぬまで控訴、上告が続き、最終判決が出る前に死亡してしまいました。
さすがに刑事被告人ともなると、総理大臣はもちろん、彼が所属していた自民党にもいられなくなり、辞職・離党せざるを得なくなりました。
それでも権力だけは放さず「闇将軍」 とあだ名されました。
よきにつけ悪しきにつけ、国民に強烈な印象を与えた人物です。
彼が、裁判中に亡くなった原因の一つには、この心労が大きくたたったと考えるのが自然でしょう。
努力して、金と権力は獲得しても、そのツケは極めて大きなものになってしまいました。
角栄が権力と差別意識からもっと解放されていたならば、別の違った人生があったかも知れませんね。
~実行力と金の力で出世して裁判で自滅した農家の二男~
「小卒でも首相になれる。
人間は学歴じゃない」
「約束したら、必ず果たせ。
できない約束はするな」
「借りた金は忘れるな。
貸した金は忘れろ」
戦後を代表する総理大臣、田中角栄の言葉です。
「戦後最大の首相」 とまで言われ、日中平和友好条約を締結しました。
自分の学歴に自信のない人に夢と希望を与えた人物でもあります。
しかし、彼の末路は有罪判決を受けた刑事被告人で裁判継続中の病死。
いったい彼の身に何があったのでしょうか。
1918年、角栄は新潟県刈羽郡(現在の柏崎市) で、農家の二男として生まれました。
父は牛馬商も営んでいましたが、事業に失敗してしまいました。
角栄は少年時代にして、極貧下の生活を余儀なくされています。
高等小学校在学中は勉学に優れ、ずっと級長もしていました。
卒業式では総代として答辞を読んでいます。
リーダーとしての資質は、すでにこのころから身についていたと考えられますね。
高等小学校を卒業すると、土木工事の現場で働きますが、1か月で辞めてしまいました。
その後、職を転々としながら、神田の中央工学校土木科の夜間部を卒業します。
しかし、当時の中央工学校は学制上の学校ではありませんでした。
この間、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員もやっています。
独立したのは1937年、建築事務所を起こしました。
43年には、田中土建工業を設立しました。
苦労して社長になった努力家だったのですね。
1914年、衆議院に当選。
以後、大蔵大臣、郵政大臣、通産大臣などを歴任し、1972年、ついに内閣総理大臣に就任したのです。
「日本中に新幹線と高速道路を作る」
「日本のすべての県に医学部を作る」
どんどん実行していきました。
35年ぶりに、日中国交正常化も実現しています。
常に大量の札が詰まった封筒を持ち歩き、金の力で人心を掌握していきました。
あまり知られていませんが、通称「人確法」 と呼ばれる法律も作っています。
「デモシカ先生」 という言葉をご存知でしょうか。
「先生にデモなるか、先生にシカなれない」 という意味で、教員は職業差別を受けて馬鹿にされていたのです。
給与が非常に安かったために希望者が少なく、教員採用試験もありませんでした。
免許さえもっていれば、誰でも試験を受けずになることができた職業だったのです。
田中角栄はここにメスを入れました。
これでは学校教育に適した人材を広く確保できない。
待遇を改善せよ。
これが「人確法」 です。
ところが、角栄は逮捕されてしまいます。
有名なロッキード事件です。
総理大臣の逮捕に日本中が大騒ぎになりました。
航空機の売り込みに関連して、アメリカのロッキード社から5億円の収賄を受けたというのです。
「よっしゃ、よっしゃ!」 と言って受け取ったとして、刑事裁判が始まりました。
一審判決は、有罪、そして追徴金5億円です。
これが彼の命取りになりました。
以後、死ぬまで控訴、上告が続き、最終判決が出る前に死亡してしまいました。
さすがに刑事被告人ともなると、総理大臣はもちろん、彼が所属していた自民党にもいられなくなり、辞職・離党せざるを得なくなりました。
それでも権力だけは放さず「闇将軍」 とあだ名されました。
よきにつけ悪しきにつけ、国民に強烈な印象を与えた人物です。
彼が、裁判中に亡くなった原因の一つには、この心労が大きくたたったと考えるのが自然でしょう。
努力して、金と権力は獲得しても、そのツケは極めて大きなものになってしまいました。
角栄が権力と差別意識からもっと解放されていたならば、別の違った人生があったかも知れませんね。
2019.04.11
第8章 明治以後 11 東条英機
11 東条英機 (1884 ~ 1948)3uwl1b
~権威・権力を手にして敗戦で絞首刑にされた軍人~
「カミソリ東条」 という言葉があります。
抜群の記憶力をもつ優秀なエリート軍人でした。
昭和天皇からも厚い信頼を獲得し、感謝の勅語も贈られています。
内閣総理大臣も経験し、戦前の日本を代表する政治家でもありました。
しかし、彼は太平洋戦争の敗戦後、極東国際軍事裁判に被告人として立たされてしまいました。
A級戦犯として起訴され、判決は絞首刑。
無念の末路を迎えることになったのです。
いったい、彼の身に何があったのでしょうか。
1884年、英機は陸軍歩兵中尉の三男として東京で生まれました。
父親は軍人でしたが、長男、次男とも早々と他界していました。
三男である英機は、父親の期待を一身に背負い、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進学したのです。
軍人としてのエリートコースで、陸軍中尉まで昇進しました。
その後一度つまずきましたが、最終的には陸軍大学校にまで進んでいます。
ちなみに彼の父親は、この陸大を首席で卒業していて「秀才」 と呼ばれていたつわ者です。
これだけでも、英機がプライド高い軍人になることは十分に予想されますね。
彼は権力志向に走ります。
複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任したのです。
特高警察と東京憲兵隊を重用して、政策に反対する一般人にさまざまな圧力を加えました。
有名な尾崎行雄を逮捕させたのも英機です。
理由は 「天皇への不敬罪」
自分にとって都合の悪いものは、地位と権力を利用して次々に弾圧しています。
これは民意から離れた独裁政治ですね。
運命の分かれ道は満州事変でしょう。
英機は陸軍の権威を重視せざるを得ない状態だったのだと思います。
中国大陸からの全面撤兵は認められないという意見を述べています。
これが、後の太平洋戦争につながっていくことは周知の事実ですね。
昭和天皇は、アメリカとの戦争は望んでいなかったと伝えられています。
それを押してまでも、英機は日米開戦を主張しました。
軍部関係者の強い意志が、引くに引けない状況に達していたのではないでしょうか。
これが破滅への道を突き進むことになりました。
東条英機総理大臣のもとで、太平洋戦争が始まります。
結果は日本史上最大の死者を出す悲劇で幕を閉じることになりました。
英機は拳銃自殺を図りますが、連合軍に阻止されます。
野戦病院から巣鴨の刑務所へ移されました。
そこは、板敷きの上にワラ布団を置き、毛布5枚のほか、何も持ちこめない独房でした。
権威・権力、プライドもズタズタにされたことでしょう。
さらに、判決から死刑執行までの約40日間、独房に昼夜を問わず明かりを灯されたのでした。
刑の執行前に自殺されては裁判の意味がなくなると、GHQが考えたからでした。
まぶしくて毛布をかぶって寝ていると、すぐに米兵がやってきて毛布をはがすというありさまでした。
何度も苦情を訴えましたが、聞き入れられませんでした。
この心労は拷問のような苦しみだったのではないでしょうか。
絞首刑よりもっと過酷だったとも考えられます。
忘れてはならないことがあります。
明治以後の対外戦争である日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争。
この4つだけでも共通していることが一つあります。
それは、これらの戦争は全部、僕たちの日本が仕掛けたものであったということです。
戦争は最大の人権侵害です。
そして、その背後に必ずといっていいほど見え隠れしているのが、民族差別、外国人差別という差別意識です。
差別はする側もされる側も、どちらも不幸にします。
僕たちはこの歴史で証明された事実から、とても大切なことを学ぶことができるのではないでしょうか。
~権威・権力を手にして敗戦で絞首刑にされた軍人~
「カミソリ東条」 という言葉があります。
抜群の記憶力をもつ優秀なエリート軍人でした。
昭和天皇からも厚い信頼を獲得し、感謝の勅語も贈られています。
内閣総理大臣も経験し、戦前の日本を代表する政治家でもありました。
しかし、彼は太平洋戦争の敗戦後、極東国際軍事裁判に被告人として立たされてしまいました。
A級戦犯として起訴され、判決は絞首刑。
無念の末路を迎えることになったのです。
いったい、彼の身に何があったのでしょうか。
1884年、英機は陸軍歩兵中尉の三男として東京で生まれました。
父親は軍人でしたが、長男、次男とも早々と他界していました。
三男である英機は、父親の期待を一身に背負い、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進学したのです。
軍人としてのエリートコースで、陸軍中尉まで昇進しました。
その後一度つまずきましたが、最終的には陸軍大学校にまで進んでいます。
ちなみに彼の父親は、この陸大を首席で卒業していて「秀才」 と呼ばれていたつわ者です。
これだけでも、英機がプライド高い軍人になることは十分に予想されますね。
彼は権力志向に走ります。
複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任したのです。
特高警察と東京憲兵隊を重用して、政策に反対する一般人にさまざまな圧力を加えました。
有名な尾崎行雄を逮捕させたのも英機です。
理由は 「天皇への不敬罪」
自分にとって都合の悪いものは、地位と権力を利用して次々に弾圧しています。
これは民意から離れた独裁政治ですね。
運命の分かれ道は満州事変でしょう。
英機は陸軍の権威を重視せざるを得ない状態だったのだと思います。
中国大陸からの全面撤兵は認められないという意見を述べています。
これが、後の太平洋戦争につながっていくことは周知の事実ですね。
昭和天皇は、アメリカとの戦争は望んでいなかったと伝えられています。
それを押してまでも、英機は日米開戦を主張しました。
軍部関係者の強い意志が、引くに引けない状況に達していたのではないでしょうか。
これが破滅への道を突き進むことになりました。
東条英機総理大臣のもとで、太平洋戦争が始まります。
結果は日本史上最大の死者を出す悲劇で幕を閉じることになりました。
英機は拳銃自殺を図りますが、連合軍に阻止されます。
野戦病院から巣鴨の刑務所へ移されました。
そこは、板敷きの上にワラ布団を置き、毛布5枚のほか、何も持ちこめない独房でした。
権威・権力、プライドもズタズタにされたことでしょう。
さらに、判決から死刑執行までの約40日間、独房に昼夜を問わず明かりを灯されたのでした。
刑の執行前に自殺されては裁判の意味がなくなると、GHQが考えたからでした。
まぶしくて毛布をかぶって寝ていると、すぐに米兵がやってきて毛布をはがすというありさまでした。
何度も苦情を訴えましたが、聞き入れられませんでした。
この心労は拷問のような苦しみだったのではないでしょうか。
絞首刑よりもっと過酷だったとも考えられます。
忘れてはならないことがあります。
明治以後の対外戦争である日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争。
この4つだけでも共通していることが一つあります。
それは、これらの戦争は全部、僕たちの日本が仕掛けたものであったということです。
戦争は最大の人権侵害です。
そして、その背後に必ずといっていいほど見え隠れしているのが、民族差別、外国人差別という差別意識です。
差別はする側もされる側も、どちらも不幸にします。
僕たちはこの歴史で証明された事実から、とても大切なことを学ぶことができるのではないでしょうか。
2019.04.04
第8章 明治以後 10 松岡洋右 (まつおかようすけ)
10 松岡洋右 (まつおかようすけ) (1880 ~ 1946)3uwl1b
~国民的英雄として歓迎され日米開戦に号泣した外務大臣~
「連盟よさらば」 1933年の新聞記事の見出しです。
連盟とは国際連盟のことです。
さらに記事は「連盟、報告書を採択。我が代表堂々退場す」 と報じました。
報告書とは、リットン報告書のことであり、この代表というのが、松岡洋右を指しています。
太平洋戦争前夜の数々の外交で活躍し、日本代表として多くの国民から歓迎されました。
しかし、彼はアメリカとの戦争を望まず、敗戦後はA級戦犯の一人として逮捕されます。
なぜでしょうか。
1880年、洋右は山口県光市で、廻船問屋の四男として生まれました。
まだ幼い11歳のときに、突然不幸が襲います。
父親が事業に失敗して破産してしまったのです。
幸いにも、親戚が渡米して成功していたので、13歳のときに留学のために渡米することができました。
しかし、学費を稼ぐためとはいえ、彼を待っていたのは薪割り、皿洗い、重労働の農作業、そして人種差別でした。
寄宿先では、洋右は使用人として扱われていたのです。
それでも努力をして、1898年、オレゴン大学に入学し、クラスで2番という優秀な成績を収めることができました。
このときのクラスメートの一人は、洋右のことを次のように言っています。
「駆け引きに長けたポーカーの名手」
すでに外務大臣に抜擢される素質があったのでしょうか。
後には彼自身が語っています。
「アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。対等な立場で対応せよ」
1931年、柳条湖(りゅうじょうこ) 事件という鉄道爆破事件をきっかけに、満州事変が勃発します。
翌32年、日本の関東軍の軍事行動により、「満州国」 が建国されたのです。
中国の東北地方に一方的につくられた、この満州国とはいったい何なのでしょうか。
一言でいえば、すでに日本の植民地にされていた朝鮮半島に続く、次の植民地候補ですね。
中国から切り離されようとしたのです。
これが侵略でなくて、いったい何なのでしょうか。
当然中国は、満州国を認めません。
鉄道爆破事件をおこしたのも関東軍だったのです。
国際連盟に訴えました。
国際連盟は、イギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣して、調査をしました。
調査団の結論は次のようになりました。
「満州事変は日本の侵略行為であり、満州国は日本軍があやつる傀儡(かいらい) 国家である」
国際連盟総会では、この報告書が42対1で採択されました。
1はもちろん日本ですね。
このときの日本代表が松岡洋右した。
国際連盟脱退。
しかし、これは洋右の考えではありませんでした。
彼は、あくまで国際連盟に残るべきだと考えていたのです。
不本意でも、当時の政府と国民世論、軍事勢力の強力な意向に従わざるをえなくなった結果でした。
これは大きな心労だったことでしょう。
すでに外務大臣として、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結していました。
近衛内閣のとき、外務省の大人事異動を行っています。
三国同盟に反対する40人を更迭し、独裁的な権力を握りました。
アメリカとの戦争も避けるべきだと考えていたのです。
「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」
世界史上最悪の大事件である第二次世界大戦は、実質的にすでに始まっていたと考えることもできるのではないでしょうか。
世界を敵に回して国際的に孤立。
太平洋戦争開戦のときには、洋右は敗戦を確信していたのかも知れません。
そしてその敗戦のショックの後、極東国際軍事裁判の途中で病死してしまいました。
戦争は最大の人権侵害ですね。
「国際連盟に残っていれば」
彼はこのことを最も痛感したのではないでしょうか。
~国民的英雄として歓迎され日米開戦に号泣した外務大臣~
「連盟よさらば」 1933年の新聞記事の見出しです。
連盟とは国際連盟のことです。
さらに記事は「連盟、報告書を採択。我が代表堂々退場す」 と報じました。
報告書とは、リットン報告書のことであり、この代表というのが、松岡洋右を指しています。
太平洋戦争前夜の数々の外交で活躍し、日本代表として多くの国民から歓迎されました。
しかし、彼はアメリカとの戦争を望まず、敗戦後はA級戦犯の一人として逮捕されます。
なぜでしょうか。
1880年、洋右は山口県光市で、廻船問屋の四男として生まれました。
まだ幼い11歳のときに、突然不幸が襲います。
父親が事業に失敗して破産してしまったのです。
幸いにも、親戚が渡米して成功していたので、13歳のときに留学のために渡米することができました。
しかし、学費を稼ぐためとはいえ、彼を待っていたのは薪割り、皿洗い、重労働の農作業、そして人種差別でした。
寄宿先では、洋右は使用人として扱われていたのです。
それでも努力をして、1898年、オレゴン大学に入学し、クラスで2番という優秀な成績を収めることができました。
このときのクラスメートの一人は、洋右のことを次のように言っています。
「駆け引きに長けたポーカーの名手」
すでに外務大臣に抜擢される素質があったのでしょうか。
後には彼自身が語っています。
「アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。対等な立場で対応せよ」
1931年、柳条湖(りゅうじょうこ) 事件という鉄道爆破事件をきっかけに、満州事変が勃発します。
翌32年、日本の関東軍の軍事行動により、「満州国」 が建国されたのです。
中国の東北地方に一方的につくられた、この満州国とはいったい何なのでしょうか。
一言でいえば、すでに日本の植民地にされていた朝鮮半島に続く、次の植民地候補ですね。
中国から切り離されようとしたのです。
これが侵略でなくて、いったい何なのでしょうか。
当然中国は、満州国を認めません。
鉄道爆破事件をおこしたのも関東軍だったのです。
国際連盟に訴えました。
国際連盟は、イギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣して、調査をしました。
調査団の結論は次のようになりました。
「満州事変は日本の侵略行為であり、満州国は日本軍があやつる傀儡(かいらい) 国家である」
国際連盟総会では、この報告書が42対1で採択されました。
1はもちろん日本ですね。
このときの日本代表が松岡洋右した。
国際連盟脱退。
しかし、これは洋右の考えではありませんでした。
彼は、あくまで国際連盟に残るべきだと考えていたのです。
不本意でも、当時の政府と国民世論、軍事勢力の強力な意向に従わざるをえなくなった結果でした。
これは大きな心労だったことでしょう。
すでに外務大臣として、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結していました。
近衛内閣のとき、外務省の大人事異動を行っています。
三国同盟に反対する40人を更迭し、独裁的な権力を握りました。
アメリカとの戦争も避けるべきだと考えていたのです。
「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」
世界史上最悪の大事件である第二次世界大戦は、実質的にすでに始まっていたと考えることもできるのではないでしょうか。
世界を敵に回して国際的に孤立。
太平洋戦争開戦のときには、洋右は敗戦を確信していたのかも知れません。
そしてその敗戦のショックの後、極東国際軍事裁判の途中で病死してしまいました。
戦争は最大の人権侵害ですね。
「国際連盟に残っていれば」
彼はこのことを最も痛感したのではないでしょうか。
2019.03.28
第8章 明治以後 9 清浦奎吾 (きようらけいご)
9 清浦奎吾(きようらけいご) (1850 ~ 1942)3uwl1b
~第二次護憲運動で総辞職に追い込まれた短命内閣の首相~
「私は坊さんになるつもりはありません。
将来、国のためになる立派な人になりたい」
大正末期の総理大臣、清浦奎吾の若き日の言葉です。
92歳の天寿を全うし、江戸時代から昭和まで生き抜きました。
貴族院議員や首相を経験し、歴史上にその名を残しています。
幼いころから学問の才能があり、山県有朋のお気に入りの人物です。
しかし、強権を発揮した清浦内閣は半年ともたず、わずか5か月でつぶれてしまいました。
これはいったいなぜなのでしょうか。
幕末の1850年、奎吾は熊本県山鹿市にある明照寺という寺院の住職の五男として生まれました。
彼はこのことにコンプレックスをもっていたようです。
貴族に憧れていたからです。
12歳のとき、熊本の浄行寺(じょうぎょうじ) の養子として出されました。
ところが、読経や仕事が嫌いで、家に帰ってきてしまいました。
冒頭の彼の言葉は、このときのものです。
その後、清浦家へまたしても養子に出されたのです。
1865年、利発であった奎吾は咸宜園(かんぎえん) に書生として出され、広瀬淡窓(ひろせたんそう) に師事しました。
これが彼が世に出る第一歩になったのではないでしょうか。
咸宜園の先輩で埼玉県令に就任した人物のコネを頼りに、上京することになったのです。
巧みな世渡りが山県有朋の目にとまり、トントン拍子に出世していきました。
1891年には、ついに貴族院議員に任命されたのです。
憧れの貴族になれたわけですね。
さらに1924年1月、枢密院議長を務めていた奎吾は、総理大臣に就任します。
しかし、清浦内閣は政党から閣僚を入れることがなく、ほぼ全員を貴族院議員で固めたのでした。
しかも、「研究会」 の会員ばかりです。
研究会というのは、彼が作り上げた「貴族閥」 です。
そもそも貴族院は国民の選挙で選ばれた国会議員ではありません。
権力者からの任命です。
このことからも、奎吾は自分を中心とした貴族の代表であり、一般民衆の代表とはほど遠いものであったと考えられますね。
いったい誰のための政治が行われるのでしょうか。
清浦内閣は超然内閣と呼ばれました。
議会・政党の意思に制約されず、行動するという主張をもっています。
大正デモクラシーの中にあって、民主主義に反するものであることは明白です。
議会を無視する態度に、国民が黙っているはずがありません。
護憲三派を中心とする第二次護憲運動は、こうして起こったのでした。
護憲三派とは、衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の3つを指します。
それぞれ、加藤高明、犬養毅、高橋是清(これきよ) が中心人物です。
3人ともこの前後に総理大臣になっていることは歴史上の事実ですね。
デモや暴動が巻き起こって、社会は大混乱になりました。
このさ中に奎吾は衆議院を解散し、総選挙に打って出ます。
しかしこの総選挙で大敗し、総辞職に追い込まれたのでした。
一言でいえば、たったの5か月で総理大臣をクビになってしまったということです。
ちなみに次に成立した加藤高明内閣は、普通選挙法を成立させた内閣として有名です。
中学校や高校の歴史教科書でも大きく取り上げられていますね。
奎吾の考え方の背景には、階級的身分差別があると思います。
この差別意識から生涯解放されなかったことが、この総選挙大敗につながったのではないでしょうか。
それにしても、彼が92歳まで生きた長寿の秘訣はいったい何だったのでしょうか。
さっさと総理大臣の重圧がなくなっていたことが良かったのでしょうか。
不思議であると同時に、その秘訣もまた興味津津ですね。
~第二次護憲運動で総辞職に追い込まれた短命内閣の首相~
「私は坊さんになるつもりはありません。
将来、国のためになる立派な人になりたい」
大正末期の総理大臣、清浦奎吾の若き日の言葉です。
92歳の天寿を全うし、江戸時代から昭和まで生き抜きました。
貴族院議員や首相を経験し、歴史上にその名を残しています。
幼いころから学問の才能があり、山県有朋のお気に入りの人物です。
しかし、強権を発揮した清浦内閣は半年ともたず、わずか5か月でつぶれてしまいました。
これはいったいなぜなのでしょうか。
幕末の1850年、奎吾は熊本県山鹿市にある明照寺という寺院の住職の五男として生まれました。
彼はこのことにコンプレックスをもっていたようです。
貴族に憧れていたからです。
12歳のとき、熊本の浄行寺(じょうぎょうじ) の養子として出されました。
ところが、読経や仕事が嫌いで、家に帰ってきてしまいました。
冒頭の彼の言葉は、このときのものです。
その後、清浦家へまたしても養子に出されたのです。
1865年、利発であった奎吾は咸宜園(かんぎえん) に書生として出され、広瀬淡窓(ひろせたんそう) に師事しました。
これが彼が世に出る第一歩になったのではないでしょうか。
咸宜園の先輩で埼玉県令に就任した人物のコネを頼りに、上京することになったのです。
巧みな世渡りが山県有朋の目にとまり、トントン拍子に出世していきました。
1891年には、ついに貴族院議員に任命されたのです。
憧れの貴族になれたわけですね。
さらに1924年1月、枢密院議長を務めていた奎吾は、総理大臣に就任します。
しかし、清浦内閣は政党から閣僚を入れることがなく、ほぼ全員を貴族院議員で固めたのでした。
しかも、「研究会」 の会員ばかりです。
研究会というのは、彼が作り上げた「貴族閥」 です。
そもそも貴族院は国民の選挙で選ばれた国会議員ではありません。
権力者からの任命です。
このことからも、奎吾は自分を中心とした貴族の代表であり、一般民衆の代表とはほど遠いものであったと考えられますね。
いったい誰のための政治が行われるのでしょうか。
清浦内閣は超然内閣と呼ばれました。
議会・政党の意思に制約されず、行動するという主張をもっています。
大正デモクラシーの中にあって、民主主義に反するものであることは明白です。
議会を無視する態度に、国民が黙っているはずがありません。
護憲三派を中心とする第二次護憲運動は、こうして起こったのでした。
護憲三派とは、衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の3つを指します。
それぞれ、加藤高明、犬養毅、高橋是清(これきよ) が中心人物です。
3人ともこの前後に総理大臣になっていることは歴史上の事実ですね。
デモや暴動が巻き起こって、社会は大混乱になりました。
このさ中に奎吾は衆議院を解散し、総選挙に打って出ます。
しかしこの総選挙で大敗し、総辞職に追い込まれたのでした。
一言でいえば、たったの5か月で総理大臣をクビになってしまったということです。
ちなみに次に成立した加藤高明内閣は、普通選挙法を成立させた内閣として有名です。
中学校や高校の歴史教科書でも大きく取り上げられていますね。
奎吾の考え方の背景には、階級的身分差別があると思います。
この差別意識から生涯解放されなかったことが、この総選挙大敗につながったのではないでしょうか。
それにしても、彼が92歳まで生きた長寿の秘訣はいったい何だったのでしょうか。
さっさと総理大臣の重圧がなくなっていたことが良かったのでしょうか。
不思議であると同時に、その秘訣もまた興味津津ですね。