1 袁世凱 (えんせいがい) (1859年 ~ 1916年)






~皇帝の位をねらって絶望死した中国の軍人~






 「国恥記念日」 (こくちきねんび) をご存知でしょうか。

 中国の「国の恥」 (はじ) という意味で、毎年5月9日がこの記念日に当たります。




 第一次世界大戦中の1915年に出された「21カ条の要求」 を認めてしまった日です。




 この要求を出したのは日本で、受け入れた中国の代表者は、中華民国初代大総統、袁世凱(えんせいがい) でした。




 国民から大きな反発が起こったのには訳があります。





 それは、この要求を認めれば中国は事実上、日本の植民地に近いような状態になる内容だったからです。




 それなのに、袁世凱はなぜこの要求を認めたのでしょうか。




 1911年に起こった、孫文の有名な辛亥革命(しんがいかくめい) に、袁世凱も関与していました。



 実は清(しん) 王朝の最後の皇帝、宣統帝(せんとうてい) を直接退位させたのは袁世凱だったのです。




 清の最大の実力者だったので、強力な軍事力を背景に、画策をしたのです。

 これで清は完全に滅びました。




 その見返りとして、最初から孫文に圧力をかけています。

 「中華民国の臨時大総統の地位を譲っていただきたい」




 驚いた孫文は「共和政と三民主義を守り、首都は南京にする」 という条件を約束させて、この地位を譲ったのでした。




 ところが、野心家の袁世凱はこの約束を破ります。




 北京に居座り、国会を無視して独裁政治を始めたのです。

 これを黙って見ているわけにはいきませんね。




 1913年7月、孫文は国民党を組織して、袁世凱討伐軍を起こしました。

 これが中国史上「第二革命」 と呼ばれるできごとです。




 しかし、袁世凱軍は強く、国民党軍は軍事力ではまだとてもかないません。

 孫文はやむなく再び日本に亡命しました。




 10月には、正式な大総統に袁世凱が就任したのです。

 彼が次にねらったのは「皇帝」 の地位でした。




 これでは辛亥革命は無意味になり、清王朝にとって代わるというだけのものになってしまいますね。



 歴史の逆戻りになりかねません。




 袁世凱は、最初から共和政をするつもりはなく、自分が皇帝になるために革命を利用したのでした。



 「21カ条の要求」 を認めたのも、自分の地位を守ることが最優先だったからです。

 見下された国民の立場から見れば「冗談じゃない」 と反発が出るのは明白ですね。




 1915年12月、権力をほぼ手中におさめた袁世凱は、中国国民が日本に負けない強い指導者である「皇帝」 を求めていると自分に都合よく考えて、次のように発言しました。




 「わしは来年を洪憲元年とし、元旦に皇帝即位の儀式を行うぞ。

 ついに、わが王朝が誕生するのだ」




 結果的にはこの読みは甘く、国民の大反発を誘うことになってしまったのです。

 「袁世凱ひっこめ、私たちの中国にはもう皇帝などいらない!」




 これが多くの国民の声でした。




 中国の人々は、袁世凱の即位に大反対し、雲南省や貴州省などは彼の支配から離れるために、次々と「独立宣言」 をしたほどです。




 このできごとは、中国史上「第三革命」 と呼ばれるようになりました。




 こうなると、いったん皇帝に即位はしたものの、わずか80日あまりで皇帝の座を退かなければならない状態に追い込まれます。




 袁世凱の心は、絶望と極めて強い心労でフラフラになったことは想像に難くありません。

 どれほど苦しんだのでしょうか。




 これから約1年後、彼は失望のあまり病に倒れ、あっけなくこの世を去ったのでした。

 国民を見下し、自分の権力のために





 「革命をつぶそうとした男」

 というマイナスのイメージだけが強く残る結果になったのです。





 皇帝ではありませんが、現在の僕たちの周りにも心当たりはありませんか。




 権力に目がくらんで、袁世凱のようなことを一生懸命やっている人がいるのではないでしょうか。
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 11 トルストイ (1828年 ~ 1910年)





~妻との不和から家出先で死亡したロシアの文豪~





 「自由になりたい・・・」

 これが、世界的な大作家、文豪トルストイの本音ではないでしょうか。




 裏を返せば、彼は自由でなかった、自由に生きることができなかったということになりますね。




 地位も富も名声も手にし、家庭的には13人の子どもに恵まれ、誰からもうらやましがられるような人生を送ったであろうと考えられがちです。




 しかし、彼の最期は家出をし、その家出先の駅で野垂れ死に同然の死に方をしています。




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 1828年、トルストイはロシアのモスクワ南方の地主の家に生まれました。

 母方のヴォルコンスキー公爵家は、当時最高位の大貴族でした。




 母方の祖父は、あのロシア帝国の大女帝、エカチェリーナ2世の軍隊の最高司令官を務めたほどです。



 トルストイは莫大な広さの土地と230人もの農奴を相続する大富豪で、伯爵の地位も後に得る極めて豊かな環境にありました。




 つまり、ご主人様ですね。




 僕たち一般庶民とはかなりかけ離れた生活が、最初からあったと考えられます。




 作家としても大成し、「戦争と平和」 や「アンナ・カレーニナ」 などの名作を次々に生み出し、文豪としての名声も広く世界に知れわたるようになりました。




 結婚はやや遅く、34歳のときでした。

 お相手はソフィア・ベルスという18歳の若妻でした。




 医者の娘で、彼女もまた恵まれた環境で育ちました。





 この結婚により、大貴族の夫人として、大勢の召使いにかしずかれて暮らすことができたのです。




 さらに大文豪の妻として、一種のファーストレディ的な存在でもあったのでしょう。

 何不自由のない幸せな夫婦と思われても、不思議はありませんね。




 ところが、転機は突然訪れます。

 トルストイ54歳のときです。




 彼はスラム街で生活する人々の悲惨な姿を目の当たりにして、強い衝撃を受けたのでした。



 「世の中の格差はひどすぎる」




 彼が貧民街の貧しい人々の暮らしを知らなかったといえばそれまでですが、このときから彼の差別意識が解放されかけたのかも知れません。




 自分自身の生き方を、大きく変えようとします。

 自分の広大な領地は農民に与え、自給自足の生活をしようと決意します。




 著作権まで手放そうとしました。

 収入の道が閉ざされ、これまでのような物質的な豊かな生活はなくなります。




 これを聞いた妻のソフィアは、猛反対です。

 約30年にわたる、夫婦の泥沼の闘いが始まりました。




 ソフィアはヒステリー症状をおこしたり、「自殺する!」 と言って騒ぎ立てたりもしました。

 


 トルストイの主張です。

 「寝室を別にして兄妹のように暮らそう」 




 ソフィアは激しく抗議しました。

 「それは妻としての私の立場への侮辱です」 




 妻の気持ちはよくわかりますが、それにしても30年も時間があって、何とかならなかったのでしょうか。




 ソフィアも何かに執拗にこだわり、心が解放されていなかったとも考えられますね。




 こうしてトルストイは断言するようになったのです。




 「私の結婚は人生最大の不幸」 


 互いに束縛された人生だったのでしょうか。




 1910年、ついに家出を決行します。




 「最後の日々を一人静かに過ごすために世界を捨てる」 




 彼の書き置きです。人目を避けてひっそりと家を出ました。




 二等車、三等車という「庶民の」 列車の車両に乗りましたが、わずか4日後に汽車の中で発熱して倒れました。




 リャザン・ウラル鉄道のアスターボヴォ駅の駅長室で亡くなりました。




 亡くなる直前にソフィアが「特別列車」 で会いに来ましたが、トルストイは面会を拒否しました。




 最後まで心労です。




 解放されなかった夫婦の末路ですね。




 考え方一つで、もっと幸福に生きることができたのではないでしょうか。
 10 セシル・ローズ (1853年 ~ 1902年)






~侵略と心労で戦争中に若死にしたイギリスの帝国主義者~






 「神は世界地図が、より多くのイギリス領に塗られることを望んでおられる。

 できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」





 「ちょっと待ってください」

 と言いたくなるセシル・ローズの有名な言葉です。





 彼の帝国主義者、人種差別者としての生き方が、この一言に凝縮されていますね。

 植民地争いの戦争まで仕掛けています。





 広く世界中から世論の非難を浴びることになったのは、言うまでもありません。





 世界地図がイギリス領に塗られることを望んでいるのは、神ではなくセシル・ローズ本人であることは明白です。





 全世界のダイヤモンド産額の9割を独占し、世界最大の「産金王」 にのし上がった彼は、意外にも40代で独身のまま、莫大な財産を残して若死にしています。





 いったいなぜなのでしょうか。





 1853年、ローズはイギリスの牧師出身の地主の子として生まれました。

 生まれつき病弱で、彼の父も心配していました。





 そこで、気候の良い南アフリカにいるローズの兄のもとへ送ることにしたのです。

 アフリカとはいえ、そこは僕たちがイメージするような過酷な気候とは違います。





 熱帯でも砂漠でもなく、温帯の過ごしやすい気候で「太陽の国」 ともよばれることがありました。




 この兄のもとで、健康を取り戻すことができたのです。





 こんな逸話が伝えられています。

 ある日、アフリカの子どもたちがおはじき遊びをしていました。





 おはじきといっても、それはガラスの玉ではなく石ころです。

 その石ころをよく見たローズは驚きます。





 何と、石の中にダイヤモンドが混じっているではありませんか。

 彼は推測しました。





 「この近辺にダイヤモンド鉱山が眠っている」





 彼の推測は、後に見事に的中することになったのです。

 1880年、デ・ビアス鉱業会社の誕生です。





 あり余る莫大な財宝を手にしたローズの満面の笑顔が、目に見えるようですね。





 同時に彼は、アングロサクソンこそ最も優れた人種であり、アングロサクソンにより地球全体が支配されることが、人類の幸福につながると信じて疑いませんでした。





 アングロサクソンというのは、イギリスに最も多い白人のことです。

 世界支配を目指す秘密結社の設立を、公言したこともあるくらいです。





 やがてケープ植民地(現在の南アフリカ共和国) の首相になり、鉄道、電信、新聞業もその支配下に入れ、すべてが順調にいくかに見えました。





 しかし、オランダ系の白人であるボーア人との植民地争いが残っていたのです。





 2度にわたるこの戦争は「ボーア戦争」 と呼ばれましたが、現地の大半の住民である黒人たちの立場に立てば、どちらが勝っても迷惑な話でしょう。





 1回目は、ローズがボーア人に仕掛けています。





 会社の軍隊を使って、南アフリカ北東部のトランスヴァールを併合しようとしましたがうまくいかず、世論の非難に押されてイギリス政府もローズを援助できませんでした。





 1896年、彼は失脚し、首相と会社を辞めました。

 2回目は、世論の鎮静化を待ったイギリス政府が、1899年に仕掛けました。





 しかし、キンバリーで包囲され、救出されるまで4か月もかかったのです。





 言葉に尽くせない、耐えがたい心労だったことでしょう。





 この間に健康が悪化し、いったんイギリスにもどりましたが、執念で再び戦争に参加しました。

 結局、戦争の終結を見ることなく、南アフリカで49歳の若さで、戦争中に亡くなりました。





 差別意識から、最後まで解放されなかった男の末路です。





 それにしても、莫大な財産の使い道は他にもあったのではないでしょうか。




 現地の人々と共に生きることもできたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
9 李鴻章(りこうしょう) (1823年 ~ 1901年)






~外交の心労で寿命を縮めた清の大臣~






 西洋の良いところを取り入れて、中国の近代化を推し進めた清朝末期の実力者です。




 「洋務運動」 と呼ばれる、鉱山開発や鉄道の敷設、近代海軍、官営軍需工場の設立などに尽力しました。




 半植民地化が進む中国を改革して立ち直り、安定した一時期をもたらしたので、この時期は後に「同治の中興」 と呼ばれました。





 作家の司馬遼太郎さんは「当時の世界で有数の政治家」 とまで評価しています。




 また、浅田次郎さんは小説の中で「清国の末期を支えるために孤軍奮闘した偉人」 と描いています。




 しかし、李鴻章は亡くなる一時間前まで仕事をしていたのです。




 「仕事をしながら死んだ」 といっても過言でない状態でした。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。





 1823年、李鴻章は南京の西方にある安徽省(あんきしょう) の合肥(ホーフェイ) という町に生まれました。




 25歳で難関試験と言われる科挙(かきょ) に上位で合格したエリートです。





 彼が配属された部署は、皇帝の詔勅を作成する特に優秀な学者が勤務する官庁でした。

 以後、25年にわたって清朝最高の実力者としての地位を保ち続けたのです。




 諸外国も、皇帝よりも李鴻章のほうこそ清帝国の真の支配者、と見なしていたくらいです。

 しかし不運にも、彼の在任中は国難の連続でした。




 まず「太平天国」 です。




 1851年に始まったこの国内戦争で、太平天国軍の北京進出を食い止めたのは、曾国藩(そうこくはん) と李鴻章です。




 1864年には、彼の組織した淮軍(わいぐん) が太平天国を滅ぼしました。





 皇帝の立場から見れば大きな手柄になりますが、国民の多くはすでに清王朝を見放していたことも事実です。




 それが後に表面化したのが、孫文で有名な辛亥革命(しんがいかくめい) ですね。

 1884年には、フランスとの間に清仏戦争(しんふつせんそう) が起こります。





 清はこの戦争で敗れ、フランスと戦後の講和条約を結んだ時の清国代表は李鴻章でした。

 この交渉の結果、それまで清の領土であった越南(現在のベトナム) を失うことになりました。





 国の代表として交渉に参加した彼の心労は相当なものだったでしょう。

 さらに、10年後の1894年、日清戦争が起こります。





 日本にも敗れた清国の全権大使は、またしても李鴻章でした。

 日本の山口県下関で下関条約が結ばれました。





 「清国は朝鮮半島から兵を引き、台湾と遼東半島をゆずります」

 それに、3億円以上の多額の賠償金を支払うという屈辱的な内容になりました。





 日本全権の伊藤博文の嬉しそうな顔が目に見えるようですね。

 あげくの果てに、李鴻章は何者かに顔面を銃撃されました。





 命はとりとめましたが、心身とも踏んだり蹴ったりであったことは想像に難くありません。

 72歳の高齢で、それでも粘り強く交渉に臨みました。





 極めつけは、1900年に起こった「義和団事件」 です。

 日本軍を主力とする8か国連合軍にまたしても敗れ、「北京議定書」 を結ぶことになりました。





 ここでも彼は清国代表として交渉に当たっています。

 5億円の賠償金を支払い、北京などに外国軍がとどまることを許すという内容でした。





 もう、誇りもプライドもズタズタですね。





 このころから、李鴻章は心労から情緒不安定になり、精神錯乱したようにどなり散らすようになりました。




 特にロシアとの交渉は難航し、何と死の1時間前にも、ロシア公使が条約調印の催促に李鴻章のもとを訪れています。




 結局、後任に袁世凱(えんせいがい) を指名して亡くなりました。





 清のこの一連の戦争は、いったい誰のためのものだったのでしょうか。





 国民の声に耳を傾け、国民の立場に立って行動すれば、この強い心労から解放されていたかもしれませんね。
 8 メンデル (1822年 ~ 1884年)






~権力保持で好きな科学に専念しそこなったチェコの司祭~






 「メンデルの法則」 という遺伝の法則を発見した偉大な科学者です。




 中学校の理科や高校の生物で習ったことがあり、彼の名を聞いたことがあるという方も多いでしょう。



 僕も詳しいことを説明する力はありませんが、現代では彼は「近代遺伝学の創始者」 とも言われています。



 エンドウ豆の交配から大きな業績を残した、偉大な人物と評価されています。




 しかし、「メンデルの法則」 は彼の生存中には全く認められず、死後30年近くもたってからやっと認められたことをご存知でしょうか。




 法則の発表からは、何と35年もたっています。





 なぜなのでしょうか。





 1822年、メンデルはチェコのモラビア地方の小さな果樹園をもつ貧しい農家に生まれました。



 当時はオーストリア帝国の領土でした。





 苦学をしながら短期大学を卒業しましたが、家庭の事情でそれ以上の進学は断念しました。

 その後、チェコのブルノの修道院での修業により、25歳で司祭になりました。





 近くの中学校の代用教員も務めたことがありますが、正教員になるための検定試験には合格することができませんでした。




 彼が修道院の庭の一隅を借りて、エンドウの遺伝研究を始めたのはこのころからです。




 1865年、約6年にわたる研究は「植物の雑種に関する実験」 と題する論文にまとめらました。



 ブルノの自然研究会の席上で発表されたのです。




 翌年には研究会の紀要に印刷され、各地の大学や研究所に送られました。

 ところが、誰にも認められません。




 実験結果の処理に数学的方法を導入するといった、新しい研究方法が理解されなかったとも考えられます。




 しかし、僕は当時の関係する学者たちが理解しようとしなかったのではないかと考えています。

 メンデルの本職は修道院の司祭であり、学者ではありません。





 「素人に何がわかるか」 という上から目線で見下され、差別的な扱いを受けたのではないでしょうか。




 これを認めれば、学者たちの誇りとプライド、権威を傷つけることにもなりかねないからですね。




 こうして「メンデルの法則」 は長い間無視され続けたのです。

 彼の死より先に、世に出ることはありませんでした。





 それにしても当の本人はこの間、いったい何をしていたのでしょうか。

 実は、研究どころではなくなってしまったのです。





 1868年、メンデルはブルノの修道院長に就任し、さまざまな公務に引っ張り出され、研究は趣味程度にしかできなくなったのです。





 さらに1874年、オーストリア議会は、修道院からも徴税する法律を制定しました。

 裏を返せば、これ以前の修道院は税を納めていなかったということですね。





 メンデルはこれに強く憤り、反対闘争を展開したのです。

 それこそ、死ぬまでの10年間、この法律の撤回のために全精力を傾けたのです。





 彼の闘争姿勢はあまりにも激しかったので、周囲からも孤立したといいます。





 他の教会が次々と税の支払いに応じていく中で、メンデルは最後まで支払いを拒否し、ついに裁判になってしまいました。





 10年にわたる裁判の中で、次第に猜疑心の強い人間嫌いの性格になってしまいました。

 失意の日々を過ごしたこの心労は、相当なものだったのでしょう。





 「私は万有引力に敏感すぎるほど体重が重くなり、もう植物採集にも行けない」

 これは、彼が知人にあてた手紙の一節です。





 1884年、メンデルは修道院の一室で、人知れず息を引き取りました。





 悔しかったことでしょう。





 他に生きる方法はなかったのでしょうか。





 彼の意識がもう少し解放されていたならば、「メンデルの法則」 はもっと早く世に出ていたかも知れません。


 

 もっと早く科学の進歩に貢献できたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。