第3集 権力と心労に揺れた人々「世界史編」






                       おわりに






 権力はどうしても必要なものでしょう。

人を強制する力ですね。




これがないと、何でもかんでも自分勝手が横行し、収拾がつかなくなります。




あげくの果てには、争いが起こり、これが国家レベルになると戦争にまで発展することもあります。




こうなると、最大の人権侵害を野放しにすることになってしまいます。

これでは多くの人間が不幸になることは、数々の世界史が証明していますね。




だから、人権を守るためには、権力が必要不可欠になります。

基本的人権でいう「自由」 と「自分勝手」 は違います。




自分の自由を行使する前提条件として、他人の自由を尊重することが必要です。

「法の下の自由」 ということですね。




「自分勝手」 には、この必要最小限のルールが除外されているのです。

だから、平気で人に迷惑をかけることにつながるわけです。




 「平等」 もそうですね。




何でもかんでも同じという意味ではありません。

「形式的平等」 ではなく「本質的平等」 が大切になります。




表面から見ると一見違うように見えても、それは区別であって、実質的には平等になっていることがたくさんあります。




一例をあげれば、オリンピックで男女別に競技が行われ、その競技内容にも違いがあるのは、男女の本質的平等を具体化しようとしているからです。




 しかし、権威、権力というものが私利私欲のために行使されると、自由と平等を侵害することにつながります。



強制される人々がその権限を納得していて、支配される人々のために使われるべきでしょう。




権力者が自分たちだけのために、人々を支配する道具としてよく使われるのが「差別」 ですね。

対等な人間関係であるはずの者どうしでも、至る所で使われています。




差別意識から解放された人はこの矛盾がよく見え、解放されていない人はなかなか気づきません。




 このような意識から解放されていない人は、一度権力を手にすると手放すのが惜しくて、なかなか手放そうとしません。




支配、強制される側からの支持を失ったら、潔く手放すべきなのに、それどころか攻撃を加えて逆に排除しようとします。




今回僕が書いたブログの中では、ソ連のスターリンがその典型的な例といえるでしょう。




「そこまでやるか」 と思われることを次々にやっていますね。

そして、自ら墓穴を掘っています。




1,000万人もの多くの人を殺さなければならなかったという事実が、国民から支持されていなかった何よりの証拠です。




 他人どころか自分自身さえも信用できなくなり、権力を失う恐怖に脅え、心労と猜疑心に振り回された壮絶な人生だったと思います。




安心してゆったりとくつろげる時間など、ほとんどなかったのではないでしょうか。

このような生き方をしたいという人は、あまりいないと思います。




一見強そうに見える権力者も、一皮むけば臆病な小心者であることが多いのです。

たった一度の人生です。




もっと自由に、もっと楽しく生きたいですね。

世界史上には、このことを先人の事例として学べる人物がたくさんいます。




僕が今回取り上げた77人は、その中のほんの一例にすぎません。

歴史はただおもしろいだけでなく、先人の生き方を学んで役立てるべきです。




僕のブログのテーマは「人間の生き方」 です。

これは過去から現在、そして将来にもわたる人類の永遠の課題でしょう。




僕は役立つ歴史とは、成功も失敗も含めて「人間の生き方」 が学べる歴史だと考えています。

これには自由、平等などの基本的人権の獲得が欠かせません。




他にも僕がまだ気づいていない、対象になる人物がたくさんいるのではないかと思います。

ぜひ教えてください。




 そして共に学ぶことができたらすばらしいですね。
 


                                 発行者 大川原英智






<訪問者の皆様へ>



 このたびはご訪問いただき、誠にありがとうございました。

 世界史の人物エッセイとして、自分なりに一生懸命書いたつもりです。



 何か一つでも、みなさんの人間としての生き方、歴史の見方、人権に関することに役立つことがあったら、とても嬉しいです。



第3集 権力と心労に揺れた人々「世界史編」 は、一通り完結しましたので、今回が最終号になります。



 次回からは、第4集 権力と心労に揺れた人々「日本史編」 として更新する予定です。


 引き続きご訪問をいただきたく、お願い申し上げます。
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12 ダイアナ (1961年 ~ 1997年)





~外見と心の空洞に揺れたイギリスの皇太子妃~





 「宮殿で暮らせたら、どんなに素敵でしょう」

 少女らしい夢ですね。




 初めてイギリス王家の生活に接したときのダイアナの言葉です。

 当時彼女は17歳でした。




 この夢は早くも2年後に実現します。

 1981年、チャールズ皇太子と結婚し、翌年にはウィリアム王子を出産したからです。




 世界中から祝福され、来日したときも大きな話題になって、毎日のようにテレビや新聞をにぎわせました。




 特にダイアナの輝くような美貌と、選び抜かれた気品のあるファッションには国中の人々が熱中しました。




 誰もが皇太子は後の国王チャールズ3世に、皇太子妃のダイアナは、後の王妃ダイアナにと思ったことでしょう。




 しかし、期待と予想に反して、王妃は実現しませんでした。




 なぜでしょうか。




 1961年、ダイアナはイギリスの名門貴族の三女として生まれました。

 ところが彼女が6歳のとき、母親のフランシスが愛人を作って家出をしてしまったのです。




 子どもに責任はありませんね。




 この時点で、心の傷は極めて大きかったのではないでしょうか。

 愛に飢えた少女期を過ごし、拒食症などの心の病にも悩まされました。




 そんな中で、1975年、父親がスペンサー伯爵になったので、ダイアナも伯爵令嬢として、レディの称号を得ることになりました。




 姉夫婦とのつながりで、王室と接することができてからは、ダイアナはあらゆる手を使ってチャールズについてまわりました。




 事あるごとに自分の魅力をアピールし続けたのです。




 ヨットやウィンドサーフィン、水泳などで積極的に近づき、マスコミもうまく利用して自分を美化させたのです。




 努力の甲斐があったのでしょうか、1981年、チャールズが押し切られる形で結婚が成立しました。




 「ダイアナ皇太子妃」 の誕生です。




 このとき彼女は19歳でした。

 しかし、この日を境にダイアナの地獄のような日々が始まりました。




 「自分が愛した女性はカミラだけだった。

 ダイアナに対して愛情を感じたことは一度もない」




 チャールズ皇太子のこの一言に、彼らの結婚生活が凝縮されていますね。

 もしかしたら、ダイアナの野心を見抜いていたのかも知れません。




 チャールズには、すでにカミラという愛人がいたのでした。

 結婚後もチャールズは、妻を一人残してカミラのもとへ通い続けました。




 ダイアナとの結婚は「形」 だけだったのです。

 その寂しさは、僕たちの想像を絶するものだったのではないでしょうか。




 ヒステリーをおこし、過食症と重いうつ病になりました。

 自殺未遂も何回も繰り返しました。




 ダイアナも、その心労と寂しさを紛らわせるために、次々と別の男性に手を出します。

 王室警護係や乗馬のコーチ、アラブ人の男性など他にも数々の名前が出てきました。




 さらに、ボランティア活動や地雷撤去運動にも熱中しました。




 しかし、これらの望ましい活動ですら、結婚生活がうまくいかないことから生ずる「あがき」 のように見えるのは僕だけでしょうか。




 やがて、別居、離婚を経て、1997年、ダイアナはついにパリで事故死します。




 フリーカメラマン集団パパラッツィの追跡を振り切ろうと、時速196キロで暴走し、恋人のイスラム教徒ドディとともに死亡したのでした。




 自殺説や他殺説などもありますが、真相は歴史の闇の中です。




 「ドディを愛している。

 これまでこんな幸せを感じたことはないわ」




 死の10日前、ダイアナが親友に打ち明けた言葉です。




 華やかな宮廷生活にあこがれ、王室の権威を手にした美しい少女。




 しかし、待っていたのは「心の空洞」 でした。




 彼女が差別心から解放されるのがもう少し早ければ、本当の幸せをつかむことができたのではないでしょうか。
11 江 青(こうせい) (1914年 ~ 1991年)






~権力に寄り添い自殺に追い込まれた毛沢東の妻~






 中華人民共和国建国の英雄、毛沢東に愛された女性です。

 彼の4番目の妻となり、ファーストレディーになりました。




 それ以前は女優として活躍し、その美貌と肉体で毛沢東を虜にしています。

 しかし、中国の大作家、魯迅(ろじん) は、次のようなエッセイを書いています。




 「暴君は残酷さをもって娯楽となす。

 他人の苦悩を楽しみに、自らの慰安とする」




 僕は魯迅の言う暴君とは、まさに江青のことだと考えています。




 なぜでしょうか。




 1914年、江青は山東省の小さな町で生まれました。

 父は木工所を営む李徳文という男でしたが、これが大変な怠け者でした。




 仕事もせず、酒を飲んでは暴れるという乱暴者だったのです。




 たまりかねた母は、江青を連れて家を出て、母子二人の幸せ薄い少女時代を送ることになりました。




 大地主の家政婦として住み込みで働きました。

 しかし江青のこの体験が、猜疑心をもって世の中に反抗的な態度を終生持ち合わせる原因になったのではないでしょうか。





 1933年、山東省の青島(チンタオ) で共産党に入党します。

 このとき、江青は18歳でした。





 青島大学の図書館で働いたこともありますが、上海へ行って劇団に学び、映画界に入り女優になりました。




 一本ではありますが、映画の主役を務めたこともあります。


 一説によると人気女優であったといいます。




 日中戦争をへて、その後中国共産党の根拠地、陝西省(せんせいしょう) の延安に行って、魯迅芸術学院で教えることになりました。




 男性が多い中で、美貌の女優は目立ちました。

 ここで毛沢東と恋愛結婚し、子どもも生まれたのです。




 ファーストレディーとして華やかな生活が始まったのですね。

 同時に、心労にも悩まされたのでしょう。




 毛沢東もなかなかの好色で、数々の女性に手を出しています。

 江青は「私は毛主席の1匹の犬です」 とまで言って、愛する夫のためにすべてを捧げました。




 毛沢東夫人だというそれだけの理由で大きな権力を手にしますが、2人は早々と事実上の離婚状態にあったとも考えられます。




 それでも江青は、自分が夫から捨てられたとは生涯認めませんでした。




 それを認めることは、彼女にとって最も恐れていたことなのです。

 だから、夫のためなら何でもやりました。




 殺人なんてへっちゃらです。

 他人を死に至らしめることを、権力の象徴と見なしていました。




 1966年、あの「文化大革命」 が始まります。

 この言葉には注意が必要です。




 名前は恰好よいですが、その実態は大量虐殺を伴う内乱です。

 毛沢東の意に反する多くの人々が、次々に殺されていきました。




 その死者は約1,000万人。




 すごい数ですね。




 毛沢東の意に沿ってこれを実行したのが「四人組」 と呼ばれる人たちです。

 そのリーダーこそ、江青だったのです。




 1976年、毛沢東が病死すると同年、四人組が逮捕されました。

 このことを伝えた中国の有名な新聞、人民日報の見出しです。




 「喜べ、四人組が逮捕された」

 文化大革命が、いかに多くの国民から支持されていなかったことがよくわかる見出しですね。




 差別的な失政です。

 4年後、江青は裁判にかけられ、文化大革命の責任をとらされます。




 裁判では暴言を吐き続け、徹底抗戦をしましたが、判決は死刑です。

 その後終身刑に減刑はされましたが、体調を崩しています。




 癌にもかかり、病院と監獄、自宅を行き来するありさまでした。

 かつての、ファーストレディ、権力者としてはプライドが許さないことでしょう。




 この心労は耐え難いものだったのか、首吊り自殺という結末を迎えます。




 「私を裁くことは、毛主席を裁くということだ」




 彼女のこの発言の背景には、いったい何があるのでしょうか。
10 毛沢東(もうたくとう) (1893年 ~ 1976年)





~権力返り咲きで孤独になった社会主義中国の建国者~





 その生涯に、光と影がはっきりした人物ではないでしょうか。




 「光」 とは国民の大多数の農民の立場に立って、中華人民共和国を建国した世界史に残る英雄でしょう。




 「影」 とはその政策の失敗と粛清により、数千万人の国民を犠牲にした独裁者だと思います。




 ヒトラー、スターリンとともに、毛沢東は「世界の3大殺戮者」 の一人と呼ぶ人もいるほどです。



 プラスの意味でもマイナスの意味でも、両面からの「権力」 のすごさを感じさせる生き方をしました。



 1893年、毛沢東は湖南省の裕福な農家の三男として生まれています。




 師範学校を卒業後、北京大学の図書館員になりました。

 その後、中学校の歴史の教員をやったり、出版社を設立したりしました。




 彼が世に出るきっかけになったことは、1921年に上海で行われた中国共産党の結党に参加したことでしょう。




 このとき、毛沢東は20代の若さでした。




 このころの共産党は農民を大切にし、農民の立場に立って孫文の呼びかけにも応じて政策に協力していました。




 しかし、蔣介石が国民党のトップに立つと、その思想の違いから敵対してしまいました。


 さらに日中戦争で、日本とも戦うことになったのです。




 苦しいながらもこのピンチを切り抜けられたのは、毛沢東が提案した「抗日民族統一戦線」 のおかげでしょう。




 戦後再び国民党と共産党の内戦になりましたが、これに勝利して1949年「中華人民共和国」 の建国宣言をしました。




 毛沢東主席の誕生です。




 「人民のものは針一本たりとも盗るな」




 この一言に象徴されるように、毛沢東の「人民解放軍」 は常に規律正しく、民衆からも広く支持されていました。




 ところが、建国後の政策は大きな失敗をもたらします。




 彼が打ち出した「大躍進政策」 と名付けられた増産計画は、結論を先に言うと、約3,000万人の餓死者を出したのです。




 全国の農村に原始的な溶鉱炉を築かせ、農民は鉄の生産を競い合いました。

 燃料となる薪を手に入れるため、樹木は切り倒されて、山は丸坊主になったのです。




 農作業放棄のため、農業生産物は激減して激しい飢餓がおこりました。




 中には幼児を誘拐してきて殺し、その肉をウサギの肉と偽って売るような悲惨な事件もおきました。




 あげくの果てに、生産した鉄は粗悪で使い物になりませんでした。

 これでは大躍進どころか、大後退ですね。





 失政は火を見るより明らかです。

 さすがに毛沢東も、政界から手を引く決意をしました。





 この心労からか、彼は肉を口にしなくなりました。




 しかし、一度は権力を手にしていたので「再び」 と願ったのでしょうか、数年後に暴挙に出ます。




 悪名高き「文化大革命」 です。





 毛沢東を崇拝する学生を中心に「紅衛兵」 という集団を組織し、暴力で政権を奪還して独裁者になったのです。




 政敵を次々に殺しまくり、中学生は担任の教師にリンチを加え、大学生は毛沢東に批判的態度をとる知識人、大学教授、党幹部を広場に引っ張り出して吊るし上げたのでした。




 しかし、荒廃した国内の回復をはたさぬまま、1976年9月に息を引き取りました。




 文化大革命というのは、革命というよりも毛沢東を神格化し、独裁政治に都合の悪い者を大量に粛清していった人権侵害の事件なのです。




 だから毛沢東には、心を許せる家族も友人もいませんでした。

 性欲は旺盛で、若い女性の肉体を次々に求め続けましたが、愛情とは別でした。




 薬を飲ませようとすると、それを毒と思い、知らないところで人が話をしていたら裏切りだと思い、絶対的な忠誠でなければ反逆者だと思っていました。




 常に心労の連続であったことは、容易に推測できますね。




 差別意識から解放されなかったために、孤独な晩年を過ごすはめになったと考えるのは僕だけでしょうか。
9 蔣介石(しょうかいせき) (1887年 ~ 1975年)





~権力にすがり続け台湾からも見放された中華民国の総統~





 諸外国の侵略から、中国を守り抜いた英雄の一人といえるでしょう。

 中学校や高校の歴史の教科書や資料集にも、写真つきで登場することが多い人物です。




 孫文の辛亥革命(しんがいかくめい) に参加して、アジア初の共和国建国に貢献しました。

 孫文の死後は北伐(ほくばつ) で中華民国を統一し、日中戦争でも首都を重慶に移して戦いぬいて最後まで屈しませんでした。




 中華民国の総統にもなった人です。




 ところが、中国本土だけでなく彼が最後に居住した台湾からも、必ずしも高い評価を得ているとは言えません。




 なぜでしょうか。




 1887年、蔣介石は中国東部、江南の浙江(せっこう)省で生まれました。

 日本に留学し、孫文に出会っています。




 中国同盟会に入って、帰国後は革命運動に加わることになりました。

 特に、中国国民党の軍事指導者として頭角を現すことになります。




 ただ、中国共産党に対して、孫文は互いに協力して第一次国共合作を成し遂げましたが、蔣介石はクーデターを起こし、共産党を正面から排除しようとしました。




 上海で多くの共産党員を射殺しています。




 思想の違いもさることながら、この事件の裏で見え隠れしているのは、大地主と大資本家たちですね。




 社会主義になって一番困るのは彼らだからです。

 蔣介石は彼らの立場に立ったとも考えられます。




 1931年に始まる満州事変や、その後の日中戦争で中国は侵略をされ始めました。

 国全体のピンチです。




 それでも蔣介石は日本と戦おうとせず、あくまで中国共産党との戦いを続けたのです。

 ここにおよんで張学良(ちょうがくりょう) という人物が「西安事件」 をおこします。




 何と蔣介石を監禁したのです。




 中国共産党の周恩来も西安にかけつけて蔣介石を説得し、やっと第二次国共合作が成立しました。




 これで侵略のピンチを乗り切ることができたわけです。

 しかし日中戦争後、国民党と共産党は再び内戦状態になります。




 結果は共産党が勝ち「中華人民共和国」 が成立しました。

 敗れた蔣介石は台湾に逃れて、あくまで「中華民国」 として敵対を続けました。




 圧倒的な軍事力をもちながら、国民党が共産党に勝てなかったのはなぜでしょうか。




 それは、蔣介石は資本主義の名のもとに、大地主や大資本家の立場に立って、国民の大多数である農民を見下していたからではないでしょうか。




 その背景に差別意識が見えますね。




 だから、1947年、台湾では国民党政権に対する大規模なデモや抗議運動が発生しました。

 蔣介石はこれを武力で弾圧し、無差別発砲や銃殺を繰り返したのです。




 台湾人の死者は18,000人から28,000人と推定されていますが、正確な数字はいまだに不明のままです。



 この事件は2月28日から始まったので、台湾の歴史上「2・28事件」 と呼ばれています。




 蔣介石はあくまでも共産党を攻撃し、中国全土の実権を取り戻そうとしたので、一般民衆の声に耳を傾けないほどかたくなになっていたのでしょうか。




 諸外国の説得にも応じませんでした。




 戦勝国として国際連合、安全保障理事会の常任理事国となった中華民国は、経済が発展し生活水準も向上しはじめました。




 しかし、国際連合が「中華人民共和国」 を中国の代表として承認すると、蔣介石は激怒します。

 アメリカや日本の説得も無視して国連を自ら脱退し、西側諸国との国交断絶を招いたのです。




 国際的に孤立したまま、蔣介石はこの台湾で亡くなりました。

 この間の蔣介石の心労は、どれほどのものだったでしょうか。




 権力を一般民衆のために行使しなければ、支持を失います。




 彼が差別意識からもう少し解放されていれば、中国本土からも台湾からも支持者が増え、40年以上もの「戒厳令」 など必要にならなかったのではないでしょうか。