おわりに




 人間なら誰でも差別をしたり、されたりという経験があるのではないでしょうか。


もし、ないと言い切る人がいたら、僕はその人が差別に気づいていないだけなのだと思います。




では、差別はなぜいけないのでしょうか。


それは、「する側」 も 「される側」 もどちらも不幸になるからです。




される側が不幸になることはだれにでも容易にわかります。


でも、仲間とともに差別を乗り越えることができれば不幸にはなりません。




自由で対等な人間関係、つまり元気で楽しい充実した生き方をすることができるのです。


わかりにくいのは 「する側も不幸になる」 という事実です。




一見強そうに見える差別者。




人を見下し、人の上に立ち、自分の思いのままに行動できることもありますが、こんな不自然な状態がいつまでも続くはずがありません。




やがて強い抵抗を受け、思いのままにならなくなり、自分が人を見下せなくなる不安や不満に恐れおののいている小心者。




これが権力者や差別者の、表面からはなかなか見えない姿です。




差別は多くの場合、「される側」 の問題ではありません。

「する側」 の問題なのです。




もし、される側にも責任があると言うならば、差別が正当化されてしまいますね。




 世の中には部落差別をはじめ、たくさんの差別が存在します。




障がい者差別、在日外国人差別、女性差別、人種差別、民族差別、学歴差別、職業差別、社会的身分差別、いじめなど、まだまだたくさんあります。




はっきり言って、僕はこれらの差別を全部やっていたことに、数十年にわたって気づいていなかったのです。




同時に、される側にも何回も立たされていたことにも気づいていませんでした。





忘れられない一言があります。





「大川原さん、私はね、女性差別と部落差別はされる方だけど、そのほかの差別はする方なのです。

 だから、仲間といっしょに勉強しているのですよ」





「解放」 は差別をすることからも、されることからも、両方から必要なことだと思います。

このことは、人間として生きるからには、誰にでも当てはまることなのではないでしょうか。

 



日本の歴史上にはさまざまな人物が登場します。




基本的人権を視点にしてよく見ていくと、日本史上の有名人の中にも、実に多くの 「差別者」 がいることに気づきます。





統一という名の人権侵害、英雄という名の暴力者、治世という名の身分差別はその事例に事欠きません。




その反面、教科書等ではそれほど大きく扱われていなくても、本人を含めた一般民衆の自由と平等をめざして、熱く生き抜いた人々がいます。




 生きる課題を共有し、一般民衆の立場で人間としての幸福をめざして活躍した人々がいたのす。



志半ばで倒れた人もいれば、一生を全うした人もいます。





彼らに共通していることは、自由な発想で自分の人生を自分らしく生きたということ。

対等で楽しく、生き生きと語り合える人間関係をめざしたということです。





 このブログのテーマは 「人間の生き方」 です。




これは過去から現在、そして将来にもわたる人類の永遠の課題でしょう。




僕は役立つ歴史とは、「人間の生き方」 が学べる歴史だと考えています。

これには基本的人権の獲得が欠かせません。





日本史上には、その生き方に共感できる人物がたくさんいます。

今回僕は、歴史と人権の両方の視点から、65人の人物にアプローチしてみました。





他にも僕がまだ気づいていない、対象になる人物がたくさんいるのではないかと思います。





ぜひ教えてください。




そして、共に学ぶことができたらすばらしいですね。





                                発行者 大川原英智 






<訪問者の皆様へ>


 このたびはご訪問いただき、誠にありがとうございました。

 日本史の人物エッセイとして、自分なりに一生懸命書いたつもりです。



 何か一つでも、みなさんの人間としての生き方、歴史の見方、人権に関することに役立つことがあったら、とても嬉しいです。


 第2集 自由と平等にかけた人々「日本史編」 は、一通り完結しましたので、今回が最終号になります。



 次回からは、第3集 権力と心労に揺れた人々「世界史編」 として更新する予定です。


 引き続きご訪問をいただきたく、お願い申し上げます。
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13 緒方貞子 (1927 ~ )





~世界の難民に寄り添い活動した国際連合の改革者~





 「世界の平和は受け身で行動しているだけでは得られません。

 汗を流して構築すべきものです」




 自らの身の危険も顧みず、銃弾飛び交う危険地帯に命がけで飛び込んでいった「小さな巨人」 緒方貞子さんの言葉です。




 僕が彼女の生き方に注目していることは、被差別の立場にある世界のたくさんの難民とともに歩いたことです。





 当時官僚的、天下り的存在だったUNHCR(国連難民高等弁務官事務所) を、自らの勇気と行動力で変えました。




 人権感覚が豊かで、差別意識から解放された人でなければ、なかなかできることではないと思います。





 緒方さんは1927年、東京都港区で生まれました。

 父親が外交官だったため、幼少期はアメリカや中国などで過ごしています。





 小学校5年のときに日本に戻り、大学卒業後はアメリカの大学院に留学しました。





 国際政治学者で、大学教授でもありますが、特筆すべきことは1991年、スイスのジュネーブに本部を置くUNHCRの弁務官に選出されてからの活動です。





 すでに、世界中に2,000万人もの難民がいたのです。





 湾岸戦争では従来の国連の慣例を破って、見捨てられそうになったクルド人難民の支援のために、イランとトルコの国境地帯を12時間も歩きまわりました。





 アメリカのブッシュ大統領にも謁見して、難民の人々のために「多国籍軍をそんなに早く撤退させないでくれ」 と積極的に頼み込んでいます。




 UNHCRと多国籍軍の協力により、20万人の難民がキャンプに収容され、罪のない人々の命が救われました。




 国外流出だけでなく「国内難民」 の支援も彼女の発案です。





 また1992年、旧ユーゴスラビア内戦のとき、緒方さんは防弾チョッキ一つでサラエボの空港に降り立ちました。





 40万人が連日の砲撃にさらされ、道路が封鎖されていたのです。

 空輸によって援助物資を届ける、という作戦に出ました。





 UNHCRにとって、国連保護軍との共同の空輸作戦は史上初めてのことでした。

 過去の憎しみを乗り越えて、住民たちの生活を再建するプロジェクトも立ち上げています。





 例えば、内戦で夫を亡くしたムスリム人、セルビア人の未亡人たちが力を合わせて、人形作りをする事業の支援です。





 民族を越えて共生の世界を作っていかなければ、真の平和と安定にはつながらない、という考えからのプロジェクトです。




 緒方さんは、海外での、日本の難民支援=お金 というイメージを一掃しています。




 
 さらに1994年、アフリカでは100万人のルワンダ難民が出ました。

 このときも緒方さんは現地へ乗り込んでいます。





 この難民の中には、集団虐殺に関与した武装兵士や民兵が紛れこんでいました。

 難民とどのように区別するかが大きな問題になったのですね。





 国連軍も派遣されませんでしたが、UNHCRは女性、子どもが多数の難民キャンプでも旧戦闘員を区別することなく、食糧等を援助しました。





 同義的な問題を理由に、有力なNGOも撤退する中、緒方さんは現場の援助を続けました。


 これらの紛争に共通していることは、背景に民族差別が存在しているということです。





 緒方さんが率いた3期10年の間に、UNHCRは予算、職員数共に倍増し、国連の中心的な組織として生まれ変わりました。





 「地球に共に生きる人間として、支え合おうとする連帯感が必要です」





 現在、および将来の国際社会の在り方を考えるとき、民族差別を乗り越え、言葉や文化が違っても 「共に生きる」 ということが不可欠だと考えるのは僕だけでしょうか。
12 萱野 茂 (かやのしげる) (1926 ~2006)





~民族差別を乗り越えてアイヌ解放に生涯を捧げた北海道の先住民~





 国会に響き渡るアイヌ語。


 歴史的瞬間ですね。




 アイヌ民族初の参議院議員である萱野茂の強い願いです。

 「日本にも大和民族以外の民族がいることを知ってほしい」




 だから、あえて国会でアイヌ語を使って質問をしたのです。




 今でこそ教科書で少しずつ取り上げられるようになったアイヌの歴史ですが、僕は残念ながら小学校、中学校、高校のどこへ行っても、アイヌについて授業で教わった記憶がないのです。




 「いるのにいないことにされている」




 これは、典型的な差別の現れの一つだったのではないでしょうか。




 1878年に明治政府が作った「北海道旧土人保護法」

 この法律は、1997年に廃止されるまで実に100年以上にわたってアイヌの人々を苦しめ続けました。




 まず、「土人」 という言葉自体が差別的ですね。

 さらにアイヌは保護地に追いやられ、日本語や日本式の名前への変更などを強制されました。




 保護という名の監禁であることは明らかですね。




 この法律を廃止し、新たな「アイヌ文化振興法」 成立に尽力した人が萱野茂だったのです。


 彼は北海道の日高地方で、アイヌ民族の子として生まれました。




 子どものころ、父の手伝いでシイタケをひもでくくった記憶があるといいます。



 これには理由があります。




 日高の平取町は、かつて豊かな森林が広がっていましたが、和人による伐採で太い木がどんどん切られてしまったのです。




 はげ山だらけになり、山に残っていたのは切られてしまった太いナラの枝ばかり。




 その枯れ枝に生えてくるシイタケを取り、町で売ってわずかなお金にせざるを得なかったのです。




 「私たちは、この大きな北海道を日本に売った覚えも貸した覚えもありません」


 開拓という名の「侵略」 が招いた末のできごとの一つだったのですね。




 茂は小学校を卒業後、造林や測量などさまざまな職業につき、1952年以降にアイヌ文化の研究を推し進めました。




 アイヌの生活用品や民話を集め、記録し保存し続けたのです。



 1972年には、故郷でもある平取町の二風谷(にぶだに)に 「二風谷アイヌ文化資料館」 をオープンさせ、自ら館長を務めました。




 小さなラジオ放送局も作り「アイヌ語ひとくち会話教室」 などを、日本語を交えて放送しました。




 若き日には悪態をついたこともありました。

 「アイヌ語なんて煮て食えるのか。何の役にも立たん」




 しかし、アイヌ語だけを話す祖母の死をきっかけに生き方が変わりました。



 「土器は捨てられても土の中に残るが、言葉は自分たちが守っていかなければ消滅してしまう」




 放送で流れたアイヌの言葉が伝われば、民族意識の目覚めにつながると確信して活動を続けました。




 1994年、茂は繰り上げ当選ながら、アイヌ民族初の国会議員になりました。

 4年間務める中、97年には「アイヌ文化振興法」 を成立させました。




 同年、二風谷ダム建設反対運動にともなう札幌地方裁判所では、初めてアイヌ民族を先住民族として認める判決が下されたのです。




 さらに同年、国会もやっとアイヌが先住民族であるということを認めました。


 世界の情勢から判断して、あまりにも遅いと感じるのは僕だけでしょうか。





 まちがいなく言えることは、アイヌも和人も同じ人間です。





 民族は異なりますが、それぞれ独特の優れた文化をもち、同じ日本という国に住む仲間です。




 互いに認め合い、学び合えるものがたくさんあるのではないでしょうか。
11 望月カズ (1926 ~1983)





~朝鮮戦争後133人を育てた38度線のマリア~





 僕が望月カズの生き方に共感できることは、行政という権力に屈せずに、自分の信念に基づく自由な生き方を貫いたということです。




 その一生は波瀾万丈の連続でした。

 そして自分自身が孤児です。




 差別に負けず、朝鮮人も差別をせず、生涯で133人もの孤児たちを育てました。

 身よりのない被差別の立場にある子どもたちと、共に生きる課題を共有しました。




 冷戦の代理戦争という歴史の動乱の中で、北緯38度線を越えて満州に渡ることができず、祖国日本への望郷の思いに駆られながら、ソウルで生き、ソウルに没しました。




 日本へ帰ったのは死後になってからです。

 朝鮮戦争の孤児とともに生きた孤児の母。





 彼女は「38度線のマリア」 とよばれ、韓国の人々から親しまれています。



 彼女はいったいどんな人物だったのでしょうか。




 東京の杉並で生まれたカズは、父の顔も知らないまま、4歳で母とともに満州へ渡りました。

 背景にはもちろん満州事変がありますね。




 しかしその2年後、母と死別しました。




 6歳という幼さで両親を失い、天涯孤独な孤児になってしまいました。

 農奴として転売されながら、満州を放浪することになります。




 金銭で売買される奴隷ですね。




 人権無視のきびしい状況の中で、かろうじて生き続けました。

 17歳のときです。




 幸運にも、偶然北朝鮮の城津という所で、ある日本人夫婦と知り合いになり、戸籍上のみの養子になったため、日本国籍を得ることができました。




 一時、永松カズと名のったのはこのためです。




 見習い看護婦をしながら第二次世界大戦の終戦をむかえ、1945年、日本に帰ることができました。




 しかし、彼女がそこで見たものは、廃墟と化した日本の悲惨な風景でした。

 身寄りもなく絶望したカズは、再び満州をめざしました。




 ところが、戦後南北に分断された朝鮮は、北緯38度を越えることができなくなり、やむをえずソウルに留まったのです。




 1950年、不幸にも朝鮮戦争が勃発しました。

 銃火の下を逃げまわるカズの目の前で、一人の韓国人女性が胸を撃たれ倒れました。




 その腕には、血まみれの男児がいました。

 カズはその男児を見捨てることができず、思わず抱きしめました。




 彼女の生涯の生き方が決定した瞬間ですね。



 「この子を見捨てられない」




 戦争の過酷な環境の中で、一時的な木造の仮の家屋であるバラックに住み、ほとんど孤立無援で肉体労働を重ねました。



 露天での理髪業や軍手製造、豆炭売り、時には体の血を売りながら次々と孤児たちを育てていったのです。




 その数は133人になりました。




 このような中で、彼女の孤児院を国の施設に移管するという話がもち上がりました。

 しかし、カズは断固としてこれを拒否しています。




 なぜでしょうか。




 行政がお金を出すということは、同時に口を出すということでもあります。

 これは言い方をかえれば、行政の支配下に入ることを意味します。




 「かわいそうだから助けてあげる」

 という「同情という名の差別」 をカズは見抜いたのだと思います。





 課題を共有して共に生きるのであれば受け入れられたのですが、上から目線で孤児を見下す姿勢に反発したのだと僕は考えています。





 楽してお金を得るよりも、苦労してでも自分の信念に沿って自由に生きることを選んだ生き方。




 望月カズは、もっと多くの日本人に知られるべき「38度線のマリア」 ではないでしょうか。
10 神谷美恵子 (1914 ~1979)





~ハンセン病患者の心に寄り添い共に生きた精神科医~





 医師、教師、政治家などの職業に携わる人々は、対人関係において注意しなければならないことが一つあります。




 それは、人からごく普通に「先生」 などと呼ばれるために、偉くなったような錯覚に陥り、人を見下してしまいやすい危険があるのです。




 僕もこのような勘違いに気づいていない時期がありました。

 でも、神谷美恵子はちがいます。




 医師、作家、大学教授でもあり、人より恵まれた家庭の経済環境、優れた才能、容姿の持ち主でありながら、おごったところが全くありません。




 いったいどんな人だったのでしょうか。




 岡山で生まれた美恵子は、いわゆる上流階級とよばれる豊かな環境の中で少女時代を過ごします。



 しかし、貧しい者への後ろめたさを感じながら、満たされないものがありました。




 通った小学校はこのような環境の令嬢が多く集まる学校でした。

 でも厳格な規律や「あそばせ言葉」 を使うお上品な貴族趣味にはうんざりしていました。




 父の仕事のため、スイスのジュネーブで3年半過ごしています。




 快適な生活に見えますが、彼女にとっては召使いや運転手つきの生活、豪華な邸宅も居心地の良いものではありませんでした。




 19歳の大学生の時です。




 美恵子は叔父からハンセン病患者の療養所である東京の多摩全生園で、賛美歌を歌う患者たちのオルガン伴奏を頼まれました。




 そこで彼女が見たものは、見る影もなく病みくずれていた患者たちの姿でした。

 鼻のない人、下唇が下へ垂れ下がったままの人、まぶたが閉まらない人、四肢のない人。




 「こんな病気があるものか。

 なぜ私たちでなく、あなた方が。




 あなた方は身代わりになってくれたのだ」

 この人たちのためにどうしても看護師か医者になりたい、と思うようになりました。




 しかし、両親は猛反対です。




 27歳になって、やっと父の許可がおりました。

 ただし、条件付きです。




 「ハンセン病をやることだけは許さない」




 この言葉の裏には、いったい何があるのでしょうか。




 美恵子は努力の末、30歳のときに精神科医になることができました。




 43歳のときになって、岡山県の離島にあるハンセン病療養所「長島愛生園」 の精神科非常勤医師として勤務することになったのです。




 「別に理屈ではない。

 ただ、あまりに無残な姿に接するとき、心のどこかで切なさと申し訳なさでいっぱいになる」




 この考え方は美恵子の生涯を貫いています。




 医師というより、むしろ看護、あるいは介護という立場でともに寄り添って行動しました。

 患者たちは声高らかに賛美歌を歌い、信仰の喜びを口々に語るのです。




 確かに批判もあります。




 死ぬまで患者を強制隔離するための法律「らい予防法」 は偏見と差別のもとになり、1996年に廃止されるまで続いていました。




 美恵子はこの法律の範囲内での行動ではないか、という批判です。




 しかし、批判の批判があることも事実です。




 そもそも美恵子はハンセン病治療の専門医ではありません。

 精神科医です。




 僕が重視したいのは、患者の心に寄り添って、生きる課題を共有して純粋にまっすぐ生きたために、差別を乗り越え、生きる喜びを共につかむことができたということです。




 だから、たくさんの患者から慕われたのではないでしょうか。




 批判は否定できませんが、僕はこの「批判の批判」 に賛成です。




 僕自身の反省も含めて、人を見下し、上から目線で命令口調で接する「先生たち」 はたくさんいます。




 しかし彼女は、差別意識から解放されたからこそ、親からの「差別命令」 を乗り越え、自分も患者も大切に生きることができる人になれたのです。




 その人柄、まっすぐな生き方に共感できるのは、僕だけではないと思います。




 人間として対等に生きるという意味で、学ぶべき人物ではないでしょうか。