第1集  自由と平等にかけた人々「世界史編」




  おわりに




 人間なら誰でも差別をしたり、されたりという経験があるのではないでしょうか。



 もし、ないと言い切る人がいたら、僕はその人が差別に気づいていないだけなのだと思います。


 何を隠そう、僕自身がそうでした。


 僕は長い間、教員として生徒たちはもちろんのこと、同僚や保護者をはじめとする大人たちに対しても公平に、平等に接しているつもりでいました。


 自分が差別などしているはずがないと、信じて疑いませんでした。

 しかし、この考えはある出会いをきっかけに、見事にくつがえされました。



 被差別部落の人たちです。



 2005年、僕は新潟県のある中学校で同和教育を担当することになりました。

 自分は何をしたらよいのかわからず、迷いながらおろおろと試行錯誤をくりかえしていたのです。


 そんな中で、あたたかい部落の人たちとのふれあいを通して、それまで自分がもっていた偏見に気づいたのです。



 部落差別ですね。


 僕は愕然としました。


 このたった一つのことに気づいただけで、次々に自らの差別心が見えてきたのです。

 世の中には部落差別のほかにも多くの差別が存在しますね。


 障がい者差別、在日外国人差別、女性差別、人種差別、民族差別、学歴差別、職業差別、社会的身分差別、高齢者差別、いじめなど、まだまだたくさんあります。


 はっきり言って、僕はこれらの差別を全部やっていたことに気づいていなかったのです。

 同時に、される側にも何回も立たされていたことにも気づいていませんでした。


 忘れられない一言があります。


 「大川原さん、私はね、女性差別と部落差別はされる方だけれど、そのほかの差別はする方なのです。

 だから、仲間といっしょに勉強しているのですよ」



 では、なぜ差別はいけないのでしょうか。



 それは、差別は 「する方が不幸になる」 からです。


 一見強そうに見える差別者。


 人を見下し、人の上に立ち、自分の思いのままに行動できることもありますが、こんな状態がいつまでも続くはずがありません。


 やがて激しい抵抗を受け、思いのままにならなくなり、自分が人を見下せなくなる不安や不満に恐れおののいている小心者。


 これが権力者や差別者の、表面からはなかなか見えない姿なのです。


 一方、差別される側は、時にはつぶされてしまうこともあります。


 しかし、その差別に負けずに仲間とともに乗り越えさえすれば、自由で対等な人間関係、つまり元気で楽しい生き方をすることができるのです。


 「解放」は差別をすることからも、されることからも、両方から必要なことだと思います。

 このことは、人間として生きるからには、誰にでも当てはまることなのではないでしょうか。



 歴史上にはさまざまな人物が登場します。


 基本的人権を視点にしてよく見ていくと、世界史上の有名人の中にも、実に多くの 「差別者」 がいることに気づきます。


 統一という名の人権侵害、英雄という名の暴力者、治世という名の身分差別はその事例に事欠きません。


 その反面、教科書等ではそれほど大きく扱われていなくても、本人を含めた一般民衆の自由と平等をめざし、生きる課題を共有し、一般民衆の立場で人間としての幸福をめざして活躍している人々もいます。


 志半ばで倒れた人もいれば、一生を全うした人もいます。


 彼らに共通していることは、自由な発想で自分の人生を自分らしく生きたということ、対等で楽しく生き生きと語り合える人間関係をめざしたということです。



 僕のブログのテーマは 「人間の生き方」 です。


 これは過去から現在、そして将来にもわたる人類の永遠の課題でしょう。


 僕は役に立つ歴史とは、「人間の生き方」 が学べる歴史だと考えています。

 これには、自由、平等をはじめとする 「基本的人権」 の獲得が欠かせません。


 世界史上には、その生き方に共感できる人物がたくさんいます。

 今回僕は、歴史と人権の両方の視点から、56人の人物にアプローチしてみました。


 他にも僕がまだ気づいていない、対象になる人物がたくさんいるのではないかと思います。

 ぜひ教えてください。


 そして共に学ぶことができたらすばらしいですね。


 




<訪問者の皆様へ>


 このたびはご訪問いただき、誠にありがとうございました。

 世界史の人物エッセイとして、自分なりに一生懸命書いたつもりです。


 何か一つでも、みなさんの人間としての生き方、歴史の見方、人権に関することに役立つことがあったら、とても嬉しいです。


 第1集 自由と平等にかけた人々「世界史編」 は、一通り完結しましたので、今回が最終号になります。


 次回からは、第2集 自由と平等にかけた人々「日本史編」 として更新する予定です。


 引き続きご訪問をいただきたく、お願い申し上げます。
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16 劉 暁波(りゅうぎょうは) (1955年~     )





~自由と平等のために獄中で権力と闘い続ける中国の人権活動家~





 「ノーベル賞」受賞者が、監獄に。


こんな不思議なことが、現実に起きていることをご存知でしょうか。




中国です。


中国人初の 「ノーベル平和賞」 受賞者は、監獄の中で服役させられ、当局によって授賞式にも出席することができませんでした。




 それどころか、劉暁波の夫人まで自宅軟禁状態に置かれています。




 彼は国際連合をはじめ、世界中の国々からその基本的人権獲得をめざした功績を認められました。

 中国の民主化を求めて、堂々と民主政治を主張し、暴力も一切ふるっていません。




 中国史上、特に大切にされるべき人物が、過酷な人権侵害を受けているのはいったいなぜなのでしょうか。




 劉暁波は吉林省の長春市で生まれました。

 1988年、 「美学と人間的自由」 で文学博士になった北京師範大学文学部の講師で、作家でもありました。




 その後、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学などで客員研究員として活動しています。

 1989年、中国で民主化運動が勃発すると、帰国して第二次天安門事件に参加しました。



 しかし、事件後に「反革命罪」で投獄され、その後も2度の投獄、強制労働を強いられています。



 2008年、有名な 「零八憲章」 を起草し、インターネット上で発表しました。



 この憲章には19項目の要求が掲げられています。

 主なものは以下の通りです。



  三権分立、  直接選挙、  司法の独立、  人権保障、  都市と地方の平等、  結社の自由、  集会の自由、    言論の自由、 宗教の自由、 社会保障 などです。



 賛同する人の輪は広がり、海外も含めて1万人以上の人たちが、インターネット上で賛同の署名をしました。


 逆にいえば、中国ではこれらの要求項目が否定されている、ということですね。




 政党も共産党一つしかありません。


 これで近代国家といえるのでしょうか。




 海外の反応はどうでしょうか。

 2010年、ノーベル賞委員会は全会一致で、劉暁波のノーベル平和賞を決定しました。




 受賞理由は、次の一文です。

「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」




 国際連合事務総長も、高く評価しています。


「人権向上の実践を求める国際世論の高まりを示すもの」




 欧州連合の委員長は

「自由と人権を追求するすべての人々を支持する強いメッセージだ」

という声明を発表しています。




 アメリカのオバマ大統領は

「劉暁波は、民主主義という万国共通の価値を平和的に推進する勇気あるスポークスマン」

 と評し、




フランスの外務大臣は

「フランスはEU と同様に逮捕直後から懸念を表明し、繰り返し釈放を求めてきた」

という声明を出しています。




 また、自身もノーベル平和賞受賞者である、チベットのダライ・ラマ14世は

「ふさわしい時に、ふさわしい人が選ばれた。



劉氏の後ろには数千人の市民がおり、中国の変化に大きく寄与するだろう」

と述べています。




 日本の当時の首相、菅直人は次のように述べました。

「中国において普遍的価値である人権と基本的自由が保障されることが重要で、釈放されることが望ましい」





 これに対し、中国政府はどんなことをしているのでしょうか。


 これらの基本的人権についての国際世論を 「内政干渉」 だと言って突っぱね続けています。





 「零八憲章」 発表の前日に暁波を拘束し、2010年2月、 「国家政権転覆扇動罪」 で懲役11年の実刑判決を下しました。


 4回目の投獄となり、判決以来、遼寧省錦州市の監獄で服役させています。





 中国のメディアは当局の管理下にあり、ノーベル賞のニュースをほとんど報じていません。


 報道の自由がないのですね。





 劉暁波や零八憲章に関するインターネット上の文章や言葉が削除され続けているので、中国ではこれらのことを知らな い人が多いという現実があります。




 この事実を、皆さんはどのように受け止められますか。




 さて、国際世論と中国当局、変わらなければならないのはどちらでしょうか。


 この答えはここに書くまでもなく明白だ、と考えているのは僕だけでしょうか。
15 アウンサンスーチー (1945年~     )




~軍事独裁と軟禁に耐え民主化運動を続けるミャンマーの女史~




 21世紀になってもまだ軍事独裁の国があったのですね。



 しかもアジア、日本から近い東南アジアのミャンマーです。

 僕は中学生や高校生のとき社会科地理の授業で、 「ビルマ」 という名で習いました。



 軍事力を背景に、ちょうど戦前の日本やドイツのファシズムのような人権侵害を日常的にやっている政権が存在していたのですね。



 人間としての自由が大幅に制限されているのですから、国民の大多数はこの軍事政権を支持していませんでした。

 それでも、力ずくで延々と政権を握り続けていたのです。



 このミャンマーで、国民の自由のために闘い続けてきた勇敢な女性がいます。


 名をアウンサンスーチーといいます。


 
 すでに日本の中学校社会科公民の教科書にも写真つきで登場し、世界でも話題になっています。

 アウンサンスーチーはミャンマー(当時のビルマ)の首都ヤンゴンで生まれています。



 父親はビルマ独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された 「ビルマ建国の父」 アウンサン将軍です。

 1960年に母親がインド大使に着任したことをきっかけに、デリー大学で政治学を学んでいます。



 その後イギリスのオックスフォード大学、ロンドン大学、日本の京都大学でも学び、ニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会でも活動しました。



 1988年、彼女は母親の見舞いのために帰国し、民主化運動に参加します。

 同年、国民民主連盟 (NLD) を結成し、総書記になりました。



 NLDは、1990年に行われたミャンマーの総選挙で82%を獲得した政党です。


 この時点で、国民の最大の支持を受けていることは明白ですね。



 しかし、ミャンマーの軍事政権は彼女を三度にわたって自宅軟禁に追い込み、1100人もの民主化運動に参加した人々をも拘留したのです。



 当然のことながら、ミャンマーの軍事政権は世界中から非難されました。

 暴力による支配は熾烈(しれつ)を極めています。



 1989年から6年間、最初の自宅軟禁が行われます。



 2回目は2000年から2002年までの3年間、

 さらに2003年から2010年11月まで、3度目の軟禁状態に置かれました。



 まさに人権侵害を絵に描いたようなできごとですね。



 イギリス人の夫マイケルとも事実上引き離され、1999年、夫は病死しています。

 さらに軍事政権は、国内の少数民族に対しても容赦なく暴力で押さえつけます。



 強制移住、過酷な強制労働、家屋の焼き打ち、強姦、殺害など、人権侵害の嵐です。

 このような逆境の中でも、彼女の闘い方は 「非暴力」 です。



 アメリカのキング牧師やインドのガンジーと同じ闘い方ですね。

 演説を中心に粘り強く、支配と差別への抵抗を続けました。



 1988年の戒厳令下の集会で、50万人に向けて演説を行いました。

 全国遊説も行い、ミャンマーの著名人44人や、国際連合もスーチーを正しいと判断し、全面的に応援しています。



 彼女は言います。


 「国民の理解と支持を基盤に私たちはやっていきます。


 私を拘束した者に対しても、何の憎しみも抱いていません。



 私たちに自由を認めてくださいとだけ言います。

 自身の自由を要求するのです」



 2011年3月、民主化の第一歩が行われ、ようやくスーチーは釈放されました。

 保守的な勢力も強く、本当の自由を求めた闘いはこれからでしょう。



 徹底した非暴力、不服従の民主化運動ですね。



 まさにミャンマーの自由と平等を求めた解放運動です。

 国民の多くが、そして世界が彼女の生き方に共感しているのではないでしょうか。



 このことを、僕たちも他人事ではなく、自分自身の問題として共有し、自分には何ができるのか考え続けていきたいと思います。



 人間であるならだれでも求めるものは、差別からの解放であり、自由な生き方です。

14 キング牧師 (1929年~1968年)




~人種の壁を越え自由と平等にかけたアメリカの黒人牧師~




 「 私には夢がある 」  ( I Have a Dream )


 「夢」 とは、肌の色で差別されることがない社会をつくることを意味します。




 日本では中学校の英語や高校の世界史の教科書で取り上げられ、広く知られるようになりました。



 キングはジョージア州アトランタで生まれ、モアハウス大学卒業後、ペンシルベニア州のクローザー神学校を経て牧師になりました。



 その後1955年、ボストン大学神学部で博士号も取得しています。




 キングはどんな差別を受けたのでしょうか。




 まず、6歳のときです。




 隣に住む同年の白人の男の子2人と仲良く遊んでいましたが、彼らの母親が

 「黒人とは二度々遊ばせません!」



 と宣言し、引き離されたのです。



 高校時代には、帰りのバスの中で白人から 「席を譲れ」 と強制されました。


 また大学時代には、飲食店で彼が黒人であるという理由で、店員が注文を取りに来ませんでした。




 社会人になってからはバーミングハムで抗議デモの際、警察に逮捕され、拘置所の独房に投獄されたこともあります。




 これに対して、彼はどのような方法で黒人解放をめざしたのでしょうか。


 一言でいえば 「非暴力主義」 です。




 非暴力の抵抗を 「大衆市民不服従」 に発展させたのです。




 これはインドのガンジーから学んだものですね。




 例をあげれば、「モンゴメリー・バス・ボイコット運動」 です。




 白人からバスの席を譲ることを強制された黒人が、これを拒否して逮捕された事件をきっかけに、キングは全黒人にバスの乗車ボイコットを呼びかけたのです。




 連邦最高裁判所は、バス車内人種分離法違憲判決を下し、黒人たちの行動を認めました。




 約100年前、リンカーンが1862年に奴隷解放宣言をしましたが、制度はなくなっても人種差別は解消されませんでした。




 第二次世界大戦後も、特に学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において、白人と非白人の区別に基づき、異なる施設を用いることは容認されたままでした。




 水飲み場でさえ、「有色人種専用 」などというものがありました。




 1963年、公民権運動の一つであるバーミングハム運動では、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ、襲わせたり警棒での滅多打ち、高圧ホースで水をかけるなどの警官の暴力があり、事件映画として全米に報道されました。




 1963年8月28日、20万人の人々による 「ワシントン大行進」 が行われました。

 キングの公民権運動のクライマックスです。




 有名な演説 「 I Have a Dream 」 ( 私には夢がある ) もこのとき行われました。




 僕がここで注目したいことは、20万人という数の中身は黒人だけではないということです。


 画像をよく見ると白人たちもたくさんいるではないですか。




 自由と平等を求めた公民権運動は、人種を越えた運動としてその大切さが証明されているような感動的な映像でした。


 翌1964年、公民権法が制定され、法の上における人種差別は終わりを告げたのでした。




 しかし、キングはその4年後、白人による凶弾に倒れます。




 なぜなのでしょうか。




 アメリカは、人権上の課題が山積していると考えられます。

 日本もそうですが。




 僕は近年、毎年のように人権・同和教育の授業の一環として、NHKで放映された 「その時歴史は動いた」 の45分のDVDを生徒たちに見せています。




 キングが凶弾に倒れた事実を知って、視聴覚室のスクリーンに向かい涙する生徒の姿が後を絶ちません。

13 マンデラ (1918年~2013)




~人種差別の獄中生活に耐えぬいた南アフリカ初の黒人大統領~




 アパルトヘイトという人種隔離政策をご存じでしょうか。


 1913年から1991年まで約80年にわたって南アフリカ共和国で行われていた、世界史上有名な人種差別です。



 少数の白人が権力を握り、大多数の黒人たちを露骨に差別したのです。

 だから、南アフリカは「白いアフリカ」とよばれていました。



 世界中からその人権侵害を非難され、国際連合でも問題になりました。

 このアパルトヘイトに立ち向かった黒人たちのリーダーがマンデラです。



 マンデラは複数の大学で法学を学び、ヨハネスバーグで黒人初の弁護士事務所を開設していました。

 1944年にアフリカ人民族会議 (ANC) に参加し、反アパルトヘイトの指導者になりました。



 差別と正面から闘いましたが、政府からの弾圧は厳しいものでした。

 1962年に禁固刑、64年には終身刑に処せられ、実に27年以上の獄中生活に耐えなければならなかったのです。




 では、このアパルトヘイトとはいったいどんな差別だったのでしょうか。




 まず、黒人たちは住む場所を 「黒人居住区」 に限定されました。



 原住民土地法という法律により、国土のわずか13%の不毛の土地が、全人口の4分の3以上を占める黒人たちに強制的に割り当てられました。



 この居住区からの外出も時間で制限されており、居住区外のレストランからホテル、電車、公園、公衆トイレに至るまで、すべて白人用と非白人用に区別されたのです。



 また、白人と黒人との結婚を禁止する背徳禁止法、黒人の職業差別を定めた産業調整法、異なった人種が政党を結成し、政治集会を開き、相互に交流することを禁じた人種交流禁止法など、数々の差別立法がなされていました。




 さらに違反した者に対しては、死刑を含む厳しい罰則が加えられたのです。




 まさに法律で人種差別を定め、差別をしないものは処罰されるという、世界史上にも稀 (まれ) と思われる非人間的な抑圧体制でした。



 黒人たちは黙っていません。



 当然のことながら、1975年と86年に反アパルトヘイトの大運動がおこっています。


 世界の国々も、あまりに露骨なこの制度に黙ってはいませんでした。




 1960年、国際連合の安全保障理事会は、人種差別廃止要求決議をしています。

 国際社会も、南アフリカに対して経済制裁を行って貿易をしないようにしたのです。




 1988年、国連総会は日本の対南ア貿易を非難する決議を採択しました。




 日本は延々と貿易を続けていて、南アフリカ政府から特別な扱いを受けていたのですね。

 僕たち日本人は白人ではありませんが 「名誉白人」 と呼ばれていたそうです。



 この事実を訪問者の皆さんはどのように考えるでしょうか。



 国の内外からの強い非難に耐えかねたのでしょうか、1991年、政府の白人大統領デクラークと釈放されたマンデラが協力して、ようやくアパルトヘイト撤廃を実現させました。



 これにともない、孤立していた南アフリカの国際社会への仲間入りが認められ、93年に2人はノーベル平和賞を受賞しました。


 そして翌94年の全人種参加の総選挙で、マンデラが黒人初の大統領に当選したのです。



 マンデラのもとで基本的人権を保障した新憲法が制定されました。



 ちなみに、これ以前の日本の中学校の社会科地理の教科書では、アパルトヘイトが2ページにわたって取り上げられており、世界中から南アフリカが非難されていると書いてありました。



 まるで他人事のようなこの記述に疑問を感じていたのは僕だけだったのしょうか。


 また、あの 「インド独立の父」 ガンジーも、南アフリカで差別と闘っていたことは僕のブログの記事で前述したとおりです。




 それにしても苦節27年。



 耐えに耐えぬいたマンデラの不屈の精神に共感する人は、世界中に大勢いるのではないでしょうか。