2 アブデュルハミト2世 (1842年 ~ 1918年)






~暗殺者におびえ続けた赤い流血のスルタン~






 「ミドハト憲法」 をご存知でしょうか。

 オスマン帝国で作られた、アジア最初の憲法です。




 国会が開設され、イスラム教徒と非イスラム教徒の平等が明記されるなど、アジア近代化の先がけになった、世界史上でも特筆すべき憲法の一つです。




 このときのスルタン(皇帝) がアブデュルハミト2世だったのです。




 しかし、彼は後に国民から「赤い流血のスルタン」 と恐れられるあだ名をつけられる暴君に変身してしまいます。





 なぜでしょうか。





 1876年、アブデュルハミト2世はオスマン帝国の第34代スルタンとして即位します。

 不幸だったのは、この即位の時点で、すでに暗い影がつきまとっていたことです。




 同じ年に叔父であった元スルタンはクーデターで廃され、その後を継いだ兄ムラト5世も精神疾患ですぐに退位していたという事実がありました。




 これでは、自分に皇帝が回ってきても、いつ自分も前の二人と同じ運命になるかわからない、という不安をもつのはごく自然なことでしょう。




 おまけに、バルカン半島をめぐってロシアとの関係が悪化し、戦争直前の状態でした。

 輪をかけての不安材料がそろっていたわけです。




 1877年、露土戦争(ろとせんそう) が始まります。

 ロシアとオスマントルコ帝国の戦争ですね。




 アブデュルハミト2世はミドハト憲法を停止し、議会を閉鎖して専制政治を開始しました。

 しかし、この戦争でロシアに敗れてしまったのです。




 計り知れない心労だったことでしょう。

 彼の顔は青白く、いつも物思いに沈む表情をしていたと伝えられています。




 というのも、彼はロシアの刺客や不満をもつ国民からの暗殺を恐れて、公衆の面前に姿を見せなかったのです。




 34歳でスルタンになって以来、安心して安らかに眠った夜は一度もなかったといいます。




 常に見えざる敵や暗殺者におびえ、国民の不満を抑えるために、軍部に命じて数々の拷問や弾圧を繰り返しました。




 殺された人の数はあまりにも多く、ある時は血が川になったことまであったほどです。




 報復を恐れたアブデュルハミトは、宮殿の広大な敷地内にいくつもの小さな建物を建て、一か所に留まらないようにしました。




 暗殺者に居場所を知られないようにするためです。




 敷地内には6,000人もの兵士を配置して警備にあたらせました。

 秘密警察も組織して、国民には密告を奨励しました。




 首都での射撃訓練には制限を加え、国内の新聞には、海外の政治家たちの暗殺関連記事の掲載を禁止したのです。




 彼は外出もせず、食事時には毒見をする宦官を侍らせていました。




 タバコでさえも、最初の一ふかしは毒見役にさせたのです。




 こうなると、もう病気ですね。

 疑心暗鬼に振り回された、小心者の姿が目に浮かぶようです。




 1909年、ついに議会が動きました。

 アブデュルハミト2世の廃位を決議したのです。




 国民から見放されてしまったわけです。

 廃位後は、現在のギリシア北部にあるサロニカというところに幽閉されました。




 心労に次ぐ心労で、クタクタに疲れた末路と考えられますね。

 強い権力をもつ者には、意外と小心者が多いようです。




 表面的には強権を発して一見強そうに見えますが、一皮むけば常に権力を失う不安にびくびくとおびえ続ける小心者。




 アブデュルハミト2世は、この典型的な事例と言えるでしょう。




 国民や外国を見下し、差別意識から解放されなかったことがこのような結果を招いたと僕は考えています。




 スルタンでなくとも、さまざまな権力というものは人を強制する力です。




 強制される人々の立場に立ち、人々のために行使され、その納得と支持のもとにあるべきでしょう。




 彼もまた、人間としての生き方がどうあるべきか、とても考えさせられる歴史上の人物だと思いませんか。
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