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8 野口英世 (1876 ~ 1928)3uwl1b




~努力で成果を発揮し晩年に権威と心労に悩まされた医師~




1,000円札の肖像でおなじみの超有名人ですね。

僕も小学生のころから、絵本などで何度も読み、顔も名前も知っていました。



超人的な努力で逆境を克服して大成した「医学界の巨人」 として、多くの人々から尊敬されています。



ノーベル生理学・医学賞の候補に、三度も名前が挙がりました。



しかし、彼の晩年は強烈な心労に悩まされ、自殺説すらささやかれていることをご存知でしょうか。



この歴史上の偉人の身に、いったい何があったのでしょうか。



 明治初めの1876年、英世は福島県猪苗代湖近くの貧しい農家の子として生まれました。

父親は酒好きの怠け者でしたが、人好きで好印象をもたれる人物だった言われています。



母親は農作業のかたわらに産婆を営み、2,000件近くの出産に貢献しました。

英世が1歳半のときに事件がおこります。



幼い彼はいろりで火傷をし、左指がくっついて3本指になってしまったのです。

その後「てんぼう」 とよばれていじめにあいます。



障がい者差別ですね。

 それでも少年時代の英世は、相撲がめっぽう強く、負けん気強い性格でした。



頭もよく、太陽の位置を見ただけで時刻がわかったといいます。



1891年、左手の障害を嘆く彼の作文が、小林栄を始めとする教師たちや同級生の目にとまりました。



英世の左手を治すための募金で手術が行われ、不十分ながらも、指が使えるようになったのです。



「医師になりたい」 彼の生涯が決定した瞬間ですね。

 医学の他にも、英語・ドイツ語・フランス語も勉強しました。



並はずれた集中力で、3か月でこれらの外国語の原書を読めるようになりました。

中国語も、わずか8日間の船旅で、簡単な日常会話をマスターしたといいます。



アメリカのロックフェラー医学研究所に留学したときは、不眠不休に近い熱心さで研究に没頭しています。



研究所の仲間たちは、英世にあだ名をつけました。

「24時間人間」
 


ついにその成果が出ました。

梅毒スピロヘータ菌の純粋培養に成功し、ワクチンもつくったのです。



そのほかにもさまざまな成果を出し、世界中の賞賛を浴びることになりました。

その一方で、酒好きで放蕩な一面もありました。



再三にわたり多額の借金を重ね「借金の天才」 とも呼ばれたこともあります。

金遣いが荒く、大金を遊興で使い切ってしまうこともありました。



しかし、晩年の英世は、強烈なプレッシャーに悩まされることになりました。



 一度医学界の寵児になると、その権威をたもつためでしょうか、さらに新たな病原菌の発見や、菌培養の成功を公表し続けなければならないと考えたようです。



これはすさまじい重圧でしょう。

具体的には、黄熱病の研究です。



病原菌イクテロイデスを発見し、ワクチンもつくりました。

しかし、これが間違いであることが、彼の死後になって証明されます。



電子顕微鏡の開発により、黄熱病の病原菌は細菌よりも極小のウイルスだったことがわかったのです。



 英世がつくったワクチンは、多数の患者に投与されましたが、全く効きませんでした。

1928年、英世はガーナのアクラで51歳の生涯を閉じます。



死因は自分自身も黄熱病に罹患したことです。

「どうも僕にはわからない」



これが彼の最期の言葉でした。



もしかしたら英世は、自分が発表した説が誤りであることに気づいていたのではないでしょうか。



後に引けなくなっていたのかも知れません。



病死か病死という名の自殺かは本人にしかわかりません。



でも、獲得した権威が脅かされる心労に振り回されて、苦悩した晩年だったのではないでしょうか。
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7 山県有朋 (1838 ~ 1922)3uwl1b






~権力にこだわって国民と皇室を敵に回した日本軍閥の祖~






 「人間は権力から離れてはならない。 

それ故、自分も権力の維持に力を尽くしている」




明治・大正を代表する政治家の一人、山県有朋(やまがたありとも) の言葉です。




2度にわたって総理大臣を経験し、その後も元老として、大きな政治的権力をもち続けた人物です。



しかし、彼の葬式は「国葬」 であったにもかかわらず、参加者は閑古鳥。

義理で出席した陸軍や警察の関係者ばかりで、一般参列者はほとんどありませんでした。




これはいったいなぜなのでしょうか。




 幕末の1838年。

有朋は長州藩の萩で、下級武士の子として生まれました。




足軽以下の低い身分で、これが劣等感として彼に長くつきまとっていました。

上級の武士たちから見下されて、悔しい思いをしたこともたくさんあったのではないでしょうか。




その反動からか、出世をめざして人一倍努力をしました。

将来は槍術で身を立てようと、少年時代から槍の稽古に励んでいたのです。




「今に見ていろ」 という意気込みで、槍の練習に熱中しました。

 1858年、上京をきっかけに、久坂玄瑞(くさかげんずい) に感化を受けました。




その後帰藩して、彼の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾しました。

さらに1863年には、高杉晋作の奇兵隊に参加することができたのです。




高杉は身分にとらわれず、有能な者を登用したからです。

志をもって入隊した有朋は、このことが世に出るきっかけになりました。




長州征伐や戊辰戦争での活躍が認められ、明治政府の役人の一人として出世していきました。

 1889年、ついに総理大臣に就任。




衆議院の選挙法を改正して、選挙権の条件であった国税15円を和らげ、有権者を増やしました。




また、記名投票を秘密投票に改めたことも、政治を民主的な方向に向けたと考えられます。

しかし、基本的に有朋の考え方は、超然主義(ちょうぜんしゅぎ) でした。




外の動静には関与せず、超然(平然) として独自の立場を貫く主義です。

具体的には、議会や政党の意志に制約されずに行動するべきと主張しました。




 軍備拡張を進め、教育勅語を発布していきます。

1900年の治安警察法では、政治・労働運動の弾圧を行いました。




自由民権運動を弾圧し、大逆事件も積極的に推し進めています。

有朋は汚職で手に入れた金品をばらまいて、地位を築き上げたと主張する人もいます。




何よりも勲章が大好きで、権力にこだわり執着しました。

これでは多くの国民からは愛されそうもありませんね。




政党政治やデモクラシーの妨害者という印象が定着したのです。

 極めつけは、1921年に起こった宮中某重大事件です。




これは裕仁親王(当時皇太子、後の昭和天皇) の婚約を、元老になっていた有朋が中心になって解消させようとした事件です。




お相手の女性の家系に、色盲の遺伝があるというのがその理由です。

これは皇室への干渉になり、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になりました。




最終的には、裕仁親王本人の意向で婚約辞退は撤回されたのです。

有朋の権威が大きく失墜したことは言うまでもありません。




 この事件が有朋の命取りになりました。

皇室をも上から目線で見ていたのでしょうか。




明治天皇や大正天皇からも嫌われ、国民の多くを敵にまわす政策で、その心労は大変なものだったと考えられます。




事件後は小田原の古稀庵にとじこもったまま、翌年あっけなく亡くなったのです。

だから、国葬にされても参列者は多くなかったわけですね。




権力とはいったい誰のためにあるのでしょうか。




権力は人を強制する力です。




広く国民のために使われるべきで、自分の勲章のためではないということを、改めて感じさせられる男の一生ですね。
6 桂 太郎 (1848 ~ 1913)3uwl1b





~総理大臣最長記録をつくり半年で病死したニコポン宰相~





 在職2886日。



3度にわたり内閣を組織し、西園寺公望(さいおんじきんもち) とともに、交互に明治末期の「桂園時代」(けいえんじだい) とよばれる黄金時代を築いた人です。




ニコニコ笑って肩をポンとたたき、政治家や財界人を手懐けたので「ニコポン宰相」 と呼ばれました。




日本史上に残る、総理在位最長記録の保持者です。

しかし桂太郎は退陣後、わずか半年ほどで癌に冒されて病死してしまいました。




この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 1848年、桂は長州藩の上士という、位の高い武士の長男として生まれました。




長州の萩では松下村塾(しょうかそんじゅく) が有名ですが、吉田松陰(しょういん) が安政の大獄で刑死したとき、桂はまだ数え年で13歳。




ここで学ぶことはできませんでした。

しかし、1866年の第2次長州征伐のときには、自ら志願して、幕府軍と戦いました。




有名な高杉晋作とともに、江戸幕府を倒す運動の一つに積極的に参加していました。

 戊辰戦争では奥州各地を転戦し、1870年にはドイツに留学しています。




帰国後は陸軍大臣や台湾総督なども歴任しました。

1901年、桂はついに総理大臣に就任。




山県有朋(やまがたありとも) らが背後で影響を及ぼしている、典型的な藩閥内閣です。

支持率はあまり高くありませんでした。




そこで1904年、当時の多くの国民が支持をした戦争を仕掛けることになります。

これがかの有名な「日露戦争」 ですね。





 この戦争は、日本の判定勝ちともいえる結果になりました。

当時の国民の大多数が支持していたものです。




しかし、数万という戦死者を出し、後に数百万の犠牲者を出した太平洋戦争につながっていったことは歴史上の事実です。




戦争が最大の人権侵害であることは、現代では疑う余地もありませんね。

罪もない人々を、次々に一方的に殺していくからです。




1910年の韓国併合もやりました。





民族差別を絵にかいたようなできごとで、21世紀になっても根強く残る在日韓国・朝鮮人差別やヘイトスピーチにつながっています。




 ただ、1911年の不平等条約改正の一つ、関税自主権の回復は、国民全体に大きな恩恵をもたらしたといえるでしょう。




外務大臣、小村寿太郎が直接実行しましたが、このときの総理大臣は桂太郎だったのです。




このことによって、僕たちの日本は、やっと欧米の列強諸国と条約上対等につきあうことができるようになりました。




江戸時代末期以来、欧米から受けてきた民族差別を乗り越えたともいえる、日本史上記念すべき瞬間だったのではないでしょうか。




 ところが、翌年桂は大きな苦境に立たされます。

第一次護憲運動です。




詔勅を乱発したために、憲法をおろそかにしたと非難されます。

衆議院の尾崎行雄は国会で桂内閣の不信任案を提案し、強く発言しました。




「口を開けば忠君愛国を一手専売のように唱えていますが、天皇の権力の陰に隠れて、政敵をねらう卑劣なやり方だ」




国民の立場に立てば、閥族打破、憲政擁護を主張する尾崎の発言は的確です。

多くの国民からから支持され、国会議事堂を民衆が取り囲む大騒ぎになりました。




桂は苦し紛れに、議会停止を命じましたが、結局総辞職。

 こうして、第3次桂内閣はわずか2か月で倒れました。




国民世論で倒され、歴史上「大正政変」 と呼ばれています。

その半年後の病死には、この心労が大きく関係していたと考えるのが自然でしょう。




しかし、彼の葬儀の会葬には数千人が参加し、桂内閣を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せているのです。




この事実の背景には、いったい何があるのでしょうか。
5 伊藤博文 (1841 ~ 1909)3uwl1b






~行政の頂点で国政を動かし海外で暗殺された長州の貧農~






 日本初の内閣総理大臣です。




過去の千円札の肖像にもなった人物で、明治を代表する日本を動かした大物政治家としてあまりにも有名です。




陽気で開放的な性格で人気が高く、明治天皇からも信頼されていました。

お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことがその理由でした。




アジア最初の立憲議会政治家として、現在でも広く高く評価されています。

しかし、彼の命の結末は暗殺。




この背景にはいったい何があるのでしょうか。

 1841年、博文は現在の山口県光市で、貧しい百姓の子として生まれました。




家が貧しかったため、12歳ごろに奉公に出されています。

父重蔵が長州藩士伊藤家の養子になったため、博文は足軽になって萩に移り住みました。




ここで吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく) に出会います。

彼が世に出るきっかけになったのはこの松下村塾です。




しかし、博文は身分が低かったため、最初のうちは塾外で立ち聞きして苦労しながら学びました。




 久坂玄瑞(くさかげんずい) をはじめ、高杉晋作、桂小五郎(後の木戸孝允) らと尊王攘夷運動、倒幕運動にまい進しました。




時代が明治になると、岩倉使節団の副使として欧米諸国を歴訪し、明治政府の要職を次々にこなしています。




博文が総理大臣になった決め手は英語力でした。

井上馨(かおる) の発言です。




「これからの総理は赤電報(外国電報) が読めなくではだめだ」

続いて山県有朋の発言です。




「そうすると伊藤君よりほかにいないではないか」

 日本初の本格的な憲法である「大日本帝国憲法」 を事実上定めたのは博文です。




第1回衆議院選挙と第1回帝国議会が開かれることを決めたのも彼だといって過言ではないでしょう。




内閣制度も定めています。

この意味では、日本の近代化をリーダーとして推進した偉人と言えるでしょう。




しかし、同時に華族制度も定めています。

これは一言でいえば、もとの大名以外の藩閥政治家たちが貴族になれる制度です。




爵位ですね。

博文は伯爵という高い地位に就きました。




これが、自分たちにとって都合のよい、新たな身分差別であることは明白ですね。

 確かに初めての国会が開かれたことも大きな意義があることです。




しかし、これは自由民権運動の勢いを防ぎきれなくなり、10年時間を稼いで藩閥政治に都合のよい準備をしていたととらえることができます。




国民の立場に立った行動ではありません。

その証拠が、大日本帝国憲法です。




国民主権にはなっていませんね。

国民を臣民(しんみん) と表現しています。




無類の女性好きで、独身者、既婚者を問わず手当たり次第手を出し、明治天皇からも叱られました。




 極めつけは日清戦争です。

そもそも日清戦争、日露戦争とはいったい何なのでしょうか。




結論を先に言えば、帝国主義どうしの国が互いに植民地をめぐって奪い合った戦争です。

標的は朝鮮半島でした。




当時の韓国の人々にとって、これほど迷惑な人権侵害はないでしょう。

日本は列強諸国の仲間入りをめざして、これらの戦争に勝利しました。




そして1910年、ついに韓国併合を成し遂げたのです。

朝鮮半島が「大日本帝国」 の植民地になったのでした。




 博文はすでに初代の韓国統監という、植民地支配につながる現地責任者になっていました。




韓国・朝鮮人差別という民族差別は、当時の明治政府だけでなく、一般民衆の中にも数多く存在したのではないかと思います。




その差別的支配の目立つ代表者として、博文は恨まれることになりました。

博文はハルビン駅で突然射殺されました。




相手は安重根という韓国人でした。




博文でなくとも重根でなくとも、これは人権侵害の応酬です。




いつかは何らかの形で悲劇を避けることができなくなると考えるのは僕だけでしょうか。