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1 田沼意次 (1719 ~ 1788)3uwl1b






~権力を勝ち取っても息子を殺され城を破壊された老中~






 田沼意次(おきつぐ) は600石の旗本から5万7,000石の大名に大出世した江戸後期の有名人です。




 老中と側用人を兼ねて、権力をほしいままにしました。

 特に1767年~86年までの約20年間は「田沼時代」 とまで呼ばれました。



 彼の商工業を中心とする積極的な政策は再評価されつつあります。



 しかし、この権力は晩年に急に剝奪(はくだつ) され、居城もすべて取り壊されてしまいました。




 この悲劇の背景にはいったい何があるのでしょうか。




 意次の父親が徳川吉宗に付いて江戸へ来て、旗本に取りたてられたのがきっかけです。




 9代将軍徳川家重は意次の才能を認め、次の将軍に彼を大切に取りたてるようアドバイスをしています。




 この次の将軍が10代将軍徳川家治(いえはる) です。

 「余にかわってそちの手腕を発揮してほしい」




 意次は家治の全面的な信頼のもとに、積極的に政治を行い、トントン拍子に出世していきました。



 遠江の相良に城を持つ大名にまでなりました。

 「商業などをさかんにし、民の力をたくわえることが大切です」




 従来の米中心の経済を、商工業・物流経済に転換させることに努め、景気の高揚を実現させました。



 長崎貿易を拡大して、金銀も獲得しています。

 外国の文化を学ぶことも必要と考え、蘭学者の平賀源内にも理解を示して重んじています。




 延々と鎖国を続けていたこの時代にあって、とても開明的な考え方ですね。

 さらに、家柄にとらわれない人材活用も行いました。




 ところが、田沼邸には自分を取りたててもらおうと、多くの人々が賄賂をたずさえてやって来るようになったのです。




 噂はどんどん広がり、意次は賄賂をとる老中として有名になってしまいました。

 大奥にもつけとどけをして、ご機嫌取りをやっています。




 巧みな弁舌で女性たちを味方にしました。

 将軍家治の側室、蓮光院(れんこういん) にも手を出して、男女の仲になっています。




 彼女も権力志向だったので、意次とは利害が一致したともいわれています。

 こうなるとねたまれますね。




 もともと身分的には高い地位にあったわけではありません。




 他の老中の一人にうっかり礼を返すことを忘れたなどという、ちょっとしたことでどんどん政敵が増えていきました。




 悲劇はまず、息子の若年寄、田沼意知(おきとも) から始まりました。

 江戸城内で刺し殺されたのです。




 だれも止めず、医師まで手当てをしませんでした。

 わずか36歳の若さでした。




 父親の意次にとっては、計り知れない打撃と心労になったことでしょう。

 1782年からは5年にもわたる天明の大飢饉に見舞われます。




 政敵を多く作った意次は、この自然災害まで「田沼のせいだ」 と責任をなすりつけられてしまいました。




 これは彼のせいではないでしょう。

 1786年、将軍家治が亡くなると、意次はたちまち老中をやめさせられました。




 11代将軍家斉(いえなり) には弁明のための上奏文を書いて訴えましたが、相手にされませんでした。




 老中の地位は寛政の改革で有名な松平定信に奪われたのです。

 8代将軍吉宗の孫です。




 その定信も意次の計略で、白河藩に養子に出され将軍になることができなかったのです。

 ここでも恨まれていますね。




 意次はやむをえず、下屋敷でひっそりと暮らしました。

 2年後、心血を注いで築いた相良城も完全に取り壊されてしまいました。




 このショックは言葉に尽くせないものだったと思います。

 意次はそれから5か月後にこの世を去っています。





 僕は、意次は民衆に目を向けたという視点から、もっと評価されてもよい人物だと考えています。





 地位と権力へのこだわりから解放されていなかったことが悔やまれますね。
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9 徳川吉宗 (1684 ~ 1751)3uwl1b






~改革を成功させても心労で悩まされ続けた幕府中興の祖~






 「暴れん坊将軍」 をはじめ、さまざまなドラマや時代劇の主人公として有名な8代将軍です。

 吉宗の「享保の改革」 は幕府の財政を黒字にして、成功したものと評価されています。



 歴代の将軍の中でも、特に優れた名君として語り伝えられてきました。

 目安箱の設置などに見られるその気さくな人柄や、積極的な行動力も魅力的です。



 しかし、彼は治世の後期になるとさまざまな心労がたたり、悩み続けました。

 この背景には、いったい何があるのでしょうか。



 1684年、吉宗は紀伊藩主、徳川光貞の四男として生まれました。

 しかし、母親の身分が低いこと、四男であることにより捨てられたのです。



 和歌山の家臣のもとでのびのびと育ちました。



 ところが、兄たちは次々と病死したり病弱であったりしたので、紀伊藩主の座がまわってきたのです。



 さらに、江戸では7代将軍徳川家継が幼少で、子どものいないまま亡くなりました。

 こうして少年時代には予期もしなかった8代将軍に就任することになったのです。



 吉宗が力を入れた政策は、財政再建のための「倹約令」 です。

 将軍自ら実践しました。


 
 着物は絹をやめて木綿にし、食事は質素な一汁一菜、大奥の人間も減らしていったのです。

 

 しかし、目安箱を通して山下幸内(こうない) という浪人から 「お上が倹約するのは間違っていないけれど、民に倹約しろというのは間違いだ」 という意見が出ました。



 幕閣たちはこの意見に興味を持ちましたが、吉宗は採用しませんでした。

 おかげで江戸の町の経済は冷え切ったのです。



 「ゴマの油と百姓は搾れば搾るほど出る」 という有名なセリフは、吉宗が勘定奉行として抜擢した神尾春央(かんおはるひで) の言葉です。



 彼は年貢率を上げて、天領から徹底的に年貢を搾り取りました。

 享保年間の年貢の税収石高は、江戸時代を通じて最高になりました。



 財政再建が進んだ一方で農村が荒廃し、百姓一揆が頻発するようにもなりました。

 年貢をとられる側に立てば、ありがたくない政策であることは一目瞭然ですね。



 強力なライバルも現れました。

 尾張藩第7代藩主、徳川宗春です。



 彼の発想はこうです。

「民がお金を使ってこそ、あるいは民間にお金を落としてこそ、世の中は豊かになる」



 だから吉宗の倹約令を無視して、尾張名古屋では自由な経済活動が保証されたのです。



 おかげで名古屋は空前の繁栄を達成し、首都でもなく幕府があったところではなくても、今日見るような日本有数の大都市に成長する基盤が築かれたのです。



 とても庶民から人気のある殿様でした。



 吉宗は倹約を民衆に強制してぜいたくを禁じると同時に、風紀の乱れを正すと称して華美な風俗や産業に次々に規制をかけました。

 

 芝居はいかん、心中物はもっとだめとか、金銀の飾り物はいかん、絹織物はいかんという具合です。



 宗春とは対照的ですね。

 民衆の支持をどちらが多く受けたかはここに書くまでもないでしょう。



 あげくのはてに、将軍のおひざ元である江戸では「打ちこわし」 が発生してしまいました。

 一揆に打ちこわし。



 相当な心労です。

 しかし、宗春も大きな失敗をしました。



 藩の財政が破綻してしまったのです。

 ここぞとばかりに、吉宗はつけ込みます。



 宗春を藩主から失脚させます。

 さらに蟄居を命じて生涯外出を許しませんでした。




 宗春の死後、墓石には金網が掛けられ、以後75年間にわたって金網は撤去されなかったのでした。



 ここまでやらなければならなかった理由はいったい何なのでしょうか。




 上から目線で民衆の支持を失い、心労に悩まされ続けた反動でしょう。

 

 吉宗の思想の基本は、あくまで儒教だったのです。



 ここから一歩も抜け出せなかった結果が出たと考えられます。
8 本寿院 (1665 ~ 1739)3uwl1b





~権力を伴った過度な好色で幽閉された尾張藩主の妻~





 尾張藩は徳川御三家の名門です。

 金の鯱鉾(しゃちほこ)で有名な 名古屋城ですね。



 僕にとってはなじみが深く、少年時代から遠足やフィールドワークで何回も行きました。

 徳川家康が、9男の徳川義直に尾張藩主を命じたのが始まりです。




 名古屋は交通の要地でもあり、西国の外様大名に対してにらみをきかせるにも好都合の場所でした。



 その第3代藩主徳川綱誠(つななり) の側室として君臨した人物が本寿院です。

 親藩の50万石を誇る大大名の妻です。



 ところが、最後は30年以上の長きにわたって自由を奪われ、孤独な一生を終えました。

 本寿院の身にいったい何があったのでしょうか。



 本寿院の少女時代の名はお福といいます。

 1665年、尾張藩の同心の娘として生まれました。



 4代将軍徳川家綱の時代にあたります。

 尾張藩主に側室として嫁ぎ、江戸の藩邸に住みました。



 男子も産んでいます。

 この男子は、後の尾張4代藩主、徳川吉通(よしみち) になる人物です。



 ところが1699年、夫の綱誠に先立たれてしまいました。

 子の吉通が藩主になり、お福は本寿院と名のったものの、彼女はまだ35歳。



 女ざかりの若い女性ですね。



 藩主の生母になったということは、同時に大きな権力が転がり込んできたということでもあります。



 この権力をかさにきて、本寿院は次々に男あさりを始めます。

 芝居見物に行くと、気に入ったイケメンの役者を屋敷に呼び出して、情交にふけりました。



 役者以外にも、町人、相撲取りなど誰彼かまわず屋敷に引き込みました。

 これはちょっと過激ですね。

 

 スキャンダルはどんどん広がっていったのではないでしょうか。

 こんなこともありました。



 尾張から新しく江戸詰めになった藩士を湯殿に連れて行き、素っ裸にして一物の値踏みをして、気に入れば情交の相手をさせたのです。



 医師にも手を出そうとしました。

 恋文を送りつけています。



 この医師は藩に仕えていた典医で、それまでに何度も本寿院の堕胎手術をさせられていました。

 この恋文に身の危険を感じたのでしょう。



 相手は藩主の母という権力者です。

 お相手を強制される前に、出仕を断り身を引きました。



 こうたびたびスキャンダルが発覚しては、江戸幕府も黙ってはいませんね。

 家康の直系の血をひく親藩、名門の大大名の母親です。



 これでは幕府の威信さえも危うくなります。

 権威に傷がつきかねないと判断し、本寿院の処分に踏み切りました。



 江戸から尾張に帰し、蟄居を申しつけたのです。

 具体的には尾張徳川家の御下(おした) 屋敷に幽閉したのでした。



 このとき、本寿院は41歳です。

 約6年間の好色人生に終止符がうたれた格好になりました。




 以後74歳で死ぬまで、延々と34年間の幽閉生活が始まりました。

 これは長いですね。




 人生の半分近くが幽閉になってしまったのです。

 独り身の寂しさからでしょうか。



 髪を振り乱して、屋敷の大木によじ登っていたという話まで伝わっています。



 好き放題やっていた江戸での華やかな生活からからは、あまりにも程遠い不自由な暮らしを余儀なくされたのでした。



 そのギャップに、彼女の心労は計り知れないものがあったことでしょう。

 突然転がり込んできた権力を、自分の欲望のために使いすぎた女性の悲しき末路ですね。



 背景には人を見下す差別心が見えます。

 大なれ小なれ、権力は人を強制する力です。




本寿院の権力は、尾張の民衆のために行使されるべきだったでしょう。




反面教師として、21世紀の現代に生きる僕たちにも学ぶことができる人物ではないでしょうか。
7 牧野成貞 (1634 ~ 1712)






~出世と引きかえに主君に妻子を奪われた側用人~






 主君とは5代将軍徳川綱吉です。  

 側用人(そばようにん) というのは、将軍と老中を取り次ぐ役目です。




 綱吉が成貞のために作った役職ともいえます。

 歴史上では柳沢吉保が有名ですが、牧野成貞の方が先に就任しています。




 事実上、老中たちより権力をもつことができる幕府の重要な役職です。

 大出世ですね。




 しかし、最後は家庭崩壊を招き、将軍からの支援にも鼻を曲げたのでしょうか。

 あっさり断って辞退しています。




 彼に身に、いったい何があったのでしょうか。




 綱吉がまだ将軍ではなく、館林藩主をしていたころから、成貞の父は藩主としての綱吉に仕えていました。




 この縁で、成貞も仕えるようになったのです。




 長い付き合いで寵臣として信頼を得ていました。




 幸運にも自分の主君が5代将軍に就任したので、成貞も綱吉のおかげで次々に加増されて出世をしていきました。




 ところが1684年、将軍にとっては不幸な事件が発生しました。

 老中堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺し殺されたのです。




 この事件に綱吉はビビリます。

 老中も若年寄も信用できない。




 明日は我が身か、ということですね。

 さっそく幕閣が仕事をする御用部屋が、将軍の部屋から遠ざけられました。




 そして将軍と老中の連絡は側用人が行ったのです。

 だから、成貞の権勢は将軍に次ぐ極めて高いものになったのです。




 また、綱吉は信頼できる寵臣でもある成貞の屋敷によくおもむきました。

 ただ、これにはとんでもない別の理由もあったようです。




 成貞の妻、阿久里(あぐり) です。

 32歳の評判の美人で、夫とは仲むつまじい女性でした。




 細かいところまでよく気がつく良妻です。

 ところが、綱吉はこの阿久里に欲情してしまったのです。




 別室で、無理やり力ずくで犯しました。

 その後、大奥に入れて側室にしてしまったのです。




 家臣の妻を強引に奪ったわけですね。

 相手は将軍です。




 彼女も夫成貞も、拒絶することができませんでした。

 これは許されない犯罪ですね。




 さらに、悲劇はこれで終わりませんでした。

 成貞と阿久里の間には、母の美貌を受け継いだ3人の娘たちがいました。




 それぞれ松子、安子、亀といいます。




 息子がおらず、長女の松子が若くして亡くなっていたので、成貞は二女安子に婿養子をとって牧野家の跡取りとしていました。




 婿は牧野成時と名のり、美濃守の官職を授けられていたのです。

 将軍の寵臣の養子になれたことに満足し、美しい妻を大切にしていました。




 結婚5年目のときです。

 こともあろうに、綱吉はこの安子にも目をつけたのでした。




 安子を大奥に強引に召し、またしても力ずくで犯したのでした。

 招きに応じなければ、お家とりつぶしになるのです。




 これはひどいですね。




 夫であった成時は、安子が大奥におもむいた夜に、切腹して果てました。

 安子も夫の後を追うように、まもなく病気にかかり、命を落とすことになりました。




 それでも、表立った非難はできません。

 将軍に対する無言の抗議ですね。




 将軍という権力は誰のためにあるのでしょうか。

 国民のためにあるのではないでしょうか。




 さすがに綱吉も、後ろめたさを感じていたのでしょう。




 最初は2,000石の家臣だった成貞を、1688年には7万3,000石の大名に取りたてました。




 しかし、こうまでされては、成貞の忠誠心も限界になったのではないでしょうか。




 後継者のいなくなった牧野家に、綱吉は何度か養子の話をもちかけましたが、成貞は首を横に振っています。




 何もかも嫌になったのでしょう。

 酒びたりになって過ごしました。




 大きな差別心のツケは、あまりにも大きな心労でした。




 もっと賢く、もっと上手に愛する妻子と娘婿を守る方法は考えられなかったのでしょうか。