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11 土方歳三 (1835 ~ 1869)3uwl1b






~武士に出世して時代の流れに翻弄された農家の末っ子~






 歴史上の人物で、これほど多くの女性にもてる男性が他にいたでしょうか。

現在でも、さまざまな時代劇やドラマで登場する人気者です。




もともと色白で引き締まった顔立ち、長身で剣の達人です。

鬼のような勇敢さと、気配りのできる心優しさをあわせ持った人物といわれています。




和歌や俳諧も好む風流さもありました。

しかし、土方歳三(ひじかたとしぞう) の人生はわずか35年。




これはいったいなぜなのでしょうか。
 



1835年、歳三は東京都日野市の農家で生まれました。

時は江戸時代末期、陽明学者の大塩平八郎が立ち上がる2年前にあたります。




6人兄弟の末っ子でした。

しかし、歳三の父は、彼が生まれる3か月前にすでに結核で亡くなっていたのです。




母親も歳三が6歳のときに、やはり結核で亡くなりました。

さらに長兄は失明していたのです。




厳しい家庭環境ですね。

だから、歳三は次兄とその妻の夫婦によって養育されました。





 少年時代は「バラガキ」 と呼ばれていました。

触ると痛いイバラのような、乱暴な少年という意味です。





農民の子ですが、武士になりたいという夢をもっていました。

ところが、10代の時に奉公に出されます。




番頭と喧嘩をして飛び出したり、店の女中と関係してクビになったりしたという話も伝わっています。




結局、薬を売るための行商に出ましたが、彼の性格に商業は合わなかったようです。

薬箱と一緒に剣術道具を持ち歩いて、道場を探していたのです。




 17歳のときです。

歳三は近藤勇と運命の出会いをします。




天然理心流の彼が教える道場に入門しました。

25歳のころには師範の代わりを務めるほど、剣術が上達していました。




1863年、14代将軍徳川家茂を警護するための浪士組に応募し、京都へ行くことになりました。




同年、新撰組が発足。

副長という地位に就き、近藤の右腕になったのです。




67年には、幕臣に取りたてられました。

武士になりたいという、夢をかなえたのですね。




 新撰組は幕府の立場に立った、京都の治安を守るための剣豪の集団です。

きびしい規律があり、破った者は容赦なしの切腹に追い込まれました。




十人以上の隊士が切腹しています。

歳三はこの統制の役を担い、「鬼の歳三」 と呼ばれました。




とにかく剣が強いので、江戸幕府に反抗する者たちはもちろん、一般庶民からも恐れられました。




同時にその戦う勇敢な姿は、あこがれの的でもあったのでしょう。

特に遊女や芸妓、舞妓たちからは、ラブレターの嵐です。




 しかし歳三には、こんな一面もありました。

彼の甥に女の赤ちゃんが生まれたときです。




送った手紙には、たった一言、「女は下の下なり」 と書いてありました。

一方、別の親戚に長男が誕生したときには、小袖や漢詩を贈って祝ったといいます。




これは、女性差別ではないでしょうか。

甥の妻は、「歳さんはねえ、ひどいんだよ」 とよく言っていました。




それでも、女性たちによく気を使うところがあったのでしょう。

憎まれたという話はあまり聞きません。




 1869年、すでに大政奉還が行われ、戊辰戦争の末期です。

彼は函館に行こうとする松本という男に対して、こう話しました。




「北海道で戦うのは、幕府が倒れようとしているのに誰も戦って死ぬ者がいないのを恥じてのことだ。




勝算などない。

君のように前途有望な人は江戸に戻った方がいい。




わたしは無能だから、快く戦い、死ぬだけだ」

そして、函館五稜郭の戦いです。




歳三は敵中に孤立した味方を救うべく、無謀ともいえる出撃をして銃弾を浴びました。




享年35歳。




彼のこの行動は、いったい何を物語っているのでしょうか。
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10 孝明天皇 (1831 ~ 1867)3uwl1b







~鎖国にこだわり新時代を前に犠牲になった若き天皇~







 江戸時代で歴史上に登場したといえる天皇は2人だと思います。

一人は初期の後水尾天皇(ごみずのおてんのう) で、もう一人が孝明天皇です。




15歳で即位した、江戸時代最後の天皇です。

学問好きな性格で、公家の学問所である学習院を創設したほどです。




和歌にも優れ、歌集も出しています。

影が薄い江戸時代の歴代の天皇の中で、彼は政治面でも全国に大きな影響をおよぼしました。




しかし、新しい時代である明治を前に、孝明天皇は突然36歳の若さで亡くなっています。

この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 1831年、彼は仁孝天皇の子として生まれ、父の崩御にともなって10代で即位しました。

少年ですね。




それでも朝廷内では主導権を着実に確保するしっかり者でした。

幕府がアメリカとの通商条約についての勅許を求めてきたのは、孝明天皇が26歳のときでした。




これは責任転嫁でしょう。

もともと鎖国は、幕府が勅許なしにやったことです。




ならば、開国も幕府が責任を持ってやるべきです。

政治に自信をなくした幕府が、天皇のお墨付きを求めたのです。




 しかし、孝明天皇の判断は、幕府にとって意外なものでした。

「ならぬぞっ!この神の国を夷(えびす:未開の外国人) どもにけがされたくはない。




勅許はならぬ!」




外国人差別ですね。

というより、200年以上の長きにわたる鎖国のツケがまわってきたと考えられます。




この発言は翌年、大老井伊直弼によって事実上無視されます。

歴史上有名な、日米修好通商条約が結ばれたのです。




プライドをズタズタにされた孝明天皇の心労は、計り知れないものがあります。

 1860年、心労はさらに続きます。




公武合体政策です。




幕府は妹の和宮(かずにみや) を、14代将軍徳川家茂(いえもち) と結婚させるよう申し出てきたのです。




朝廷の権威を利用しようとする幕府の計略は見え見えですね。




「決してならぬぞ!異人がたくさんいる関東に、和宮を嫁にやるなど、とんでもない!」

すでに婚約者がいた和宮も、激しく抵抗しました。




当然のことですね。

しかし、これも幕府に攘夷を約束させるという条件で、認めてしまいました。




 「攘夷がかなうなら、和宮の犠牲もやむをえまい」

これが、孝明天皇の結論です。




一貫して外国人を拒絶していますね。

江戸幕府と協力して、あくまでも鎖国を続けようとしたのです。




しかし、さらに心労に輪をかけることになったのは倒幕運動です。

「攘夷は大いにやってほしい。でも幕府を討つことなど考えてもいない。

心配で夜も眠れぬ」




彼が側近にもらしたこの言葉は本音でしょう。

20代の彼が政治をする自信など、なかったのかも知れませんね。




 長い鎖国のおかげで、生活体験が不足していたと考えられます。




攘夷を祈願するために、下鴨神社や石清水八幡宮へ行幸したとき、孝明天皇は宮廷外の風景に驚いたといいます。




ほとんど御所で起居していたので、外の世界の情報に乏しいのです。

ましてや外国の良さなど、眼中になかったのですね。




攘夷などという考え方では、明治という新しい時代を生きていけそうにもありません。

戦争になって、中国のアヘン戦争のようになってしまう危険が大です。




 1867年、江戸時代最後の年です。

この年に孝明天皇は亡くなりました。




公式の記録では、天然痘による病死と発表されています。

でもこれは、創作でしょう。




毒殺説、刺殺説が当初からありました。




心ある国民にとっても、幕府にとっても、諸外国にとっても、孝明天皇の攘夷論は危険すぎます。




いくつかの状況証拠しかありませんが、僕は毒殺と考えるのが自然だと思います。

こっそりと目立たないように、外国との戦争を防ぐために消されたのではないでしょうか。




もっと早く明治天皇に譲位していれば、新しい時代を見ることができたかも知れませんね。
9 徳川家茂 (いえもち) (1846 ~ 1866)3uwl1b






~開国と攘夷の狭間で犠牲になった幕末の若き将軍~






 13歳で将軍。

現在でいえば中学校の1年生ですね。




一国のリーダーになれということ自体無理があります。

14代将軍徳川家茂は、鼻筋の通った現代的な顔つきであり、妻とは相思相愛でした。




彼が亡くなったときは、誰もが死を惜しむような人柄だったと伝えられています。

多くの人々から親しまれ、幕末のむずかしい政局にも精いっぱい対応して努力しました。




しかし、家茂の生涯はわずか21年。

彼の身に、いったい何があったのでしょうか。




 1846年、家茂は徳川御三家の一つ、紀伊藩主徳川斉順(なりゆき) の長男として生まれました。




名前は慶福(よしとみ) といいます。

ところが、何と4歳のときに紀伊藩主を務めることになったのです。




まだ物心もついていないこの年齢で、過酷な責任ですね。

さらに、9年後には将軍に就任させられました。




数奇な運命としか言いようがありません。

傀儡(かいらい) であることは、火を見るより明らかです。




では、権力者は誰かというと、大老の井伊直弼です。

国民の立場に立てば、攘夷という外国との戦争を招くような考えには疑問でしょう。




痛い目にあうのは国民です。

その点、直弼が推進した開国は、世界の情勢から見ても必要なことでした。




ただ、条約の内容が不平等だったために、国内の経済は混乱してしまいました。




安政の大獄や桜田門外の変という熾烈な政争の中で、10代の若き将軍家茂は、責任を持って行動しようと一生懸命努力しました。




幕臣たちからも、当初思ったよりも信頼されました。

しかし、尊王論が高まる中で、家茂は政治の道具に利用されます。




公武合体という政略結婚ですね。

尊王論と幕府への批判をかわすねらいがあることは見え見えです。




1861年、将軍家茂は、孝明天皇の妹、和宮(かずのみや) と結婚させられたのです。

ともに14歳。




この時点でも中学生にあたる年齢です。

ましてや相手の和宮は、すでに婚約者がいました。




もちろんこの婚約は、半強制的に破棄させられたわけです。

人権侵害を絵にかいたようなできごとですね。




ところが、この結婚は意外にもうまくいったようです。

夫婦仲はよく、家茂は側室も置かずに、仲睦まじく暮らすことができました。




僕は家茂の人柄だと思います。

彼は家臣や女性、動物に至るまで、優しい態度で接することができました。




数奇な運命に翻弄された妻、和宮を事あるごとに労わり、理想の夫婦とまで呼ばれました。

和宮もそれに応えて、本来家臣がするような仕事も自ら進んでやり、夫に尽くしました。




結婚は何が起こるかわかりませんね。

むしろ、家茂にとって心労になったのは、兄の孝明天皇の方です。




長い鎖国の影響でしょうか。

外国を敵視し、国際理解には程遠い意識ですね。




幕府に攘夷を強く迫ってきたのです。

勅使を通して、攘夷実行の期日を約束させようとまでしました。




心ある人なら、これが無茶な要求であることは明白です。




困った幕府は、将軍が京都まで出向いて返事をするという、その場しのぎの約束をせざるをえない状態に追い込まれました。




天皇の権威は強力です。

こうして、家茂は京へ行かされました。




ますます心労が激しくなったことでしょう。

あげくの果てに、孝明天皇は攘夷成功を祈るために、下鴨神社に行幸すると言い出しました。




これに家茂が同行させられたことは言うまでもありません。

そして、最後は長州藩が幕府に公然と反抗してきました。




高杉晋作の騎兵隊ですね。

家茂はこの長州征伐の最中に、大坂城で短い生涯を終えたのです。




直接の原因は脚気(かっけ)ですが、度重なる心労が大きく関係していることは疑う余地もありません。




それにしても、何とかこの強烈な心労から解放される手だてはなかったのでしょうか。
8 武市半平太 (1829 ~ 1865)3uwl1b






~尊王攘夷運動と大名の権力の狭間で揺れた土佐の志士~






 武市半平太(たけちはんぺいた) は人格者として人気が高い幕末の志士です。

言説さわやかで、誠実な人柄が長く語り伝えられています。




剣の腕も一流で教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていた人物でした。




土佐勤王党を結成して尊王攘夷運動にまい進し、一時は土佐藩全体を動かすリーダーにもなりました。




しかし、彼はわずか35歳にして切腹に追い込まれるという結末を迎えました。

これはいったいなぜなのでしょうか。




 1829、半平太は現在の高知市の郷士の家に生まれました。

一刀流・千頭伝四郎に入門して、剣術を学びました。




体格も堂々たるもので、180センチメートル前後の身長があったと伝えられています。

彼は長州の吉田松陰の思想に共鳴していました。




幕末の動乱の中で、土佐藩全体を、尊王攘夷で固め、一時は上士という上級の武士としても取りたてられています。




しかし、土佐藩の参政であった吉田東洋は開国・公武合体派。

意見が対立することになります。




 1861年、尊王攘夷運動を掲げて、江戸で密かに土佐勤王党を結成します。

最初は有名な坂本竜馬や中岡慎太郎も入っていました。




2年後には192名にふくれあがり、大きな発言力を持つようになっていました。

ところが、意見の合わない吉田東洋に刺客を放ち、暗殺させたのです。




これが、後に命取りになったと考えられます。




なぜなら、前藩主、山内容堂は開国派で公武合体の考えを持ち、吉田東洋を大いに信頼して

いたからです。




 半平太は土佐藩の実権を握ると、藩主山内豊範を押し立てて、京に上りました。

朝廷を動かして、幕府に攘夷を約束させようとしたのです。




攘夷とは、外国を打ち負かして追い出すことですね。

外国に対する差別的な響きをもった言葉でもあります。




これがいかに無謀であるかは、その後の歴史が証明しています。

まともにやれば、清のアヘン戦争やインドの大反乱とよばれる歴史的事件と同じ結果になります。




世界の実情に通じていなかったといえるでしょう。




 1863年、八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると、勤王派が急速に衰退します。




代わって公武合体派が主導権を握ると、土佐藩内でも前藩主、山内容堂の影響力が再び強くなったのです。




それでも半平太は、尊王攘夷の考えを貫き通して、山内容堂をも動かそうとしました。




薩摩長州の和解調停案の決裁を、容堂に仰ごうとして土佐に帰国したところを捕縛されてし

まいました。




以後、1年8か月に及ぶ投獄生活を余儀なくされたのです。

 この間の心労は、想像を絶するものだったことでしょう。




ただ、救われたのは妻、富子の存在です。

普段から仲睦まじい夫婦であったことがよく知られています。




彼女は夫の投獄期間中、毎日三食欠かさずに牢に差し入れました。

夫と苦労を共にすべく、板の間で寝起きをしたのです。




夏は蚊帳を張らずにすごし、夫を慰めるための書籍や自作の押絵なども差し入れていました。

半平太の切腹の際の白い死装束も、富子が縫い上げたものだったのです。




 すごいですね。

 1865年、ついに半平太は切腹を命じられました。




「君主に対する不敬行為」 というのが罪状です。

信念を持って生き、その人柄からたくさんの人々に親しまれた半平太。




土佐勤王党の盟主としての権力は手にしましたが、前土佐藩主という権力は超えることができませんでした。




あくまで藩の支配下から抜け出すことがなかったのです。




国際理解の重要性を認識し、土佐藩と縁を切って活動することができたら、もっと大きな成果をあげることができる力量の持ち主だったのではなかったでしょうか。