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~○○会なんて新潟県教育界のガンだ、やめます~



 「何をバカ言ってんだ。校長に話をしろ」・・・勤務校の教頭から浴びせられた強烈な一言です。僕が「やめます」と言った理由は、次の事実によるものです。


 まだ週休二日制が実施されていなかった頃、土曜日も半日勤務で3時間の授業がありました。午後は全校の大半の生徒が元気よく部活動をしていました。


 その午後に○○会は堂々と飲み会を開くというのです。多くの生徒が活動中で、学校には教員がほとんど誰もいなくなりました。これが直接の理由です。


 事実上の強制参加の飲み会で断ることもできず、活動中の生徒たちがとても心配でした。


 ○○会というのは、新潟県の義務教育諸学校に勤務する職員を中心に結成されている研修団体という名の「派閥」です。


 研修と親睦を目的としたもので、勤務時間外の土日や平日の夜に定期的に会合を開いています。僕は直属の校長から誘われたので入会していました。


 ところがこの会は、教員の人事異動に大きな発言力があり、無視できない強力な存在にもなっています。むしろ、後者の方が主と考える会員が多いかも知れません。


 勉強できるという良い面もあるのですが、権力的な社会的身分差別が横行する泥臭い面もあるので多くの県民から批判されています。


 そのため、こそこそと一般にはわからないように活動することが多かったです。このような派閥は僕が知っているだけでも県内で5つあり、まだ知らないものもあるのではないかと思います。


 さて、教頭に怒鳴られた僕は、退会の意志を告げに校長室に行きました。「わかりました。大川原さんにはまだ早かったですね」・・・校長は意外にもあっさりと認めてくれました。


 でもこれは口先だけ。その後も何も活動していないのに高い会費を3年ほど払わされ続け、そのことに気づいたのは次の中学校に転勤した時でした。


 会費の支払いは給料からの天引きだったのです。後の祭りです。つくづく自分の未熟さと愚かさを痛感しました。


 世界史上には、この社会的身分差別と正面から闘い乗り越えた人物がいます。フランス革命の仕掛け人になったシエイエスです。


 18世紀当時のフランスでは明らかな身分差別がありました。僧侶が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分です。


 人口の9割が第三身分でしたが、上の2つの身分は税を納めなくてもよいという特権を持っていました。三部会と呼ばれた議会も差別国会です。


 評決は数ではなく、3つのうちの2つの身分の賛成で決まっていました。シエイエスは第一身分の人物ですが、あえて第三身分の代表として議員になっていたのです。


 「税は国民がみな公平に負担するべきである。われわれ第三身分は、僧侶や貴族も税をはらうことを要求する」・・・これに対して、上の2つの身分の人たちは投票で決めようと言い出します。


 この評決方法では要求が通るはずがありませんね。そこでシエイエスは「国民議会」という第三身分だけの国会を作ろうとしました。


 少数ながら上の2つの身分にもこれを認める心ある人たちがいました。しかし第一、第二身分から妨害されて、議場に入れなくなりました。


 「よろしい。議場に入らなくても議会は開ける。諸君、室内のテニスコートに集まってくれ。そこで議会を開こう」ここで新しい憲法ができるまで解散しないことが約束されました。


 これが世界史上有名な「テニスコートの誓い」です。そしてついにフランス革命が始まったのです。人権宣言が採択され、憲法が制定され、王政を廃止して共和政になりました。


 シエイエスの決断は、人権感覚豊かな差別意識から解放された勇気ある行動だったのではないでしょうか。
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~教務が年度途中で教頭に~  囲む会で胴上げ・・・?



 「出なければよかった」・・・同調圧力に負けて参加した飲み会です。高い会費と貴重な自由時間を失いました。11月頃だったでしょうか。


 僕が勤務していた同僚の研究主任、原山さん(仮名)からの呼びかけです。「教務主任の桑山さん(仮名)がこのたび教頭先生になられます。


 祝賀と激励の会を開きますので、希望される方はぜひご参加ください」朝の職員朝会でのことです。今から思えば「希望」という名の「強制」と考えるのが事実に近いでしょう。


 強制という名の「鍵」などかかっていないはずなのに、なぜか参加しなければいけないという雰囲気が強い学校でした。一瞬どうしようかと考えました。


 当時まだ若かった僕は、桑山さんからいろいろと指導してもらった恩があります。同時にその反対が半分。常に上から目線で多くの職員に接していました。


 「指示」「お願い」という名の命令が多かったのです。職員にも生徒たちにも常に管理的で、今から思えば教育職の多忙化を促進しているような方でした。


 実際に宴会が始まると、参加者はそれほど多くなかったと記憶しています。数十人いる全職員のうち、半数もいたかいなかったかくらいでした。


 まずここで違和感。この席は本当に自分がいるべきところなのか。次に、宴たけなわのころ原山さんが言いました。「皆さん、桑山さんを胴上げしましょう」・・・


 「えっ?本当にやるの」と思いましたが、突然のことなので言われるがままに流されてやることになりました。この時にまたしても違和感を感じました。


 今から思うと参加者は現職の校長と教頭、管理職予備軍と呼ばれる教員とその支持者、そして僕のような判断力が未熟な者の集まりだったような気がします。


 冷静に分析すると、社会的身分差別の意識から解放されていなかった人たちの集まりだったと考えられます。残念ながら当時の僕自身もその中の一人だったのですね。


 ヨーロッパに、この社会的身分差別から解放されたと考えられる世界史上の個性的な国王がいます。イギリスのエドワード8世です。


「王冠をかけた恋」という代名詞で、本国イギリスを始め世界中で知られています。彼は結婚の自由のために王位を捨てた人物です。


 36歳の時のお相手は34歳のウォリス・シンプソンという名の女性でした。


 結論を先に言えば、エドワード8世は彼女との結婚のためにイギリス国王の身分を堂々と捨てたのでした。 彼は結婚を決めたとき、あちらこちらから妨害されたのです。


 ウォリス・シンプソンには2度の離婚歴がありました。特に社会的地位もなく、美人ともいわれないアメリカの平民でした。


 イギリス王室の規則では、国王は離婚経験者とは結婚できないことになっていました。


 離婚経験者のどこがいけないのでしょうか。この規則自体が差別的だと思うのは僕だけでしょうか。イギリス王室だけでなく、内閣、マスコミからのバッシングに至るまで騒然となりました。


 それまでのエドワード8世は、国王に対するお世辞に慣れてうんざりしていました。多くの女性とつきあいはしましたが、社会的地位が優先し、むなしさを感じていました。


 ウォリスにはそれがないのです。気取らず、飾り気のない物言い、温かみのある態度。彼は初めて自分を「人間扱い」してくれる女性に出会ったのです。


 勇気を出して国王よりも「人間として」生きる道を選んだのですね。社会的身分差別から解放されたこの決断。国内からの同調圧力にも決して負けませんでした。


 僕が本当に胴上げしたかった拍手喝采を送りたい歴史上の人物です。
~指導主事の見送り強制~  「そういうもんだ」・・・?


 僕が今まで勤めたことのある学校はどこへ行ってもそうですが、教職員の飲み会は本当に多かったです。何か行事があるたびに、やれ反省会だ、やれ激励会だ、などという具合です。


 年に少なくとも10回以上、多ければ20回前後にもなります。どの学校も参加して当然という雰囲気があり、飲み会を休むなどということは何か特別な事情があるときだけでした。


 自分の意志ではとても休みにくかったです。みんなストレスがいっぱいたまっていたのでしょう。 その中でたった一度、こんなことがありました。


何かの研究会の反省会と称する飲み会だったと思います。


勤務校の教職員はもちろん全員参加し、氏名は知りませんが指導主事と呼ばれる教育委員会の職員もお客さんとして参加していました。


宴たけなわで、僕も結構楽しく同僚と歓談していたときです。年配の教員である桑山さん(仮名)から突然言われました。


「お客さんが帰られるから玄関までお送りしなさい」 僕はとっさに 「えっ?なぜですか」


 命令口調だったのでカチンときました。彼の返答は一言です。「そういうもんだ」・・・ 諭すような言い方にまたカチンときましたが、あきらめて言われた通りにしました。


桑山さんは管理職ではありません。同僚たちからも嫌われていました。一方的な命令口調が多かったからです。 「あの先生、管理職でもないのに・・・」


 日頃からこんな不満が職員たちにうっ積していました。校長や教頭とはベッタリで、出世意欲丸出しの方でした。管理職予備軍です。 当時の僕は勤務校の最年少教員。


世の中には中身よりも 「形が大切」な時もあるということを若い後輩に教えようとしていたのでしょうか。ならば、「そういうもんだ」には感謝するべきです。


でもこれは半分。残りの半分は社会的身分差別により、人を見下した発言とも考えられます。僕だけでなく、他の教職員に対しても命令口調で見下した態度が日頃から目立っていました。


嫌な思いをする人が多く、よく職員間の噂の種になっていました。


 この社会的身分差別からきっぱりと解放されて生きた歴史上の人物がスウェーデンにいます。クリスティーナ女王です。父王の死により6歳で王位を継ぎ、18歳で親政を開始しました。


ドイツ語やフランス語、イタリア語、スペイン語を話すことができ、ラテン語も話すことができる才女です。会議では議事を見事に裁き、三十年戦争も講和に持ち込んで戦争を終結させました。


学術振興にも努め、哲学者のデカルトをはじめ、多くの学者を招いています。 


しかし、6歳の時から政略結婚の申し込みが後を絶たず、まわりも「結婚を強制」しようとする動きすらありました。


クリスティーナ女王にとって、当時の結婚は男性への従属を意味していました。


これに簡単に応じれば、結婚相手に服従することになり、自分の良心に従って生きることはできないことを見抜いていたのです。


王という身分は権力者ではあるけれど、自分が本当にしたいことができるとは限りません。 彼女の結論はこうです。「王位をすてる」・・・


本当にあこがれていたのは南国文化であり、住みたかったところはイタリアです。1654年、王位を従兄に譲り、あこがれの地ローマに向かいました。


男装に身をつつみ、まるで逃亡者のようにスウェーデンを脱出。新居を構え、詩人、芸術家、学者と接しながら彼女の後半生をローマで全うしました。


社会的身分差別意識から解放されたからこそ、勇気をもって自分が自分らしく生きることを実行できたのですね。
~2種類の生徒の発言 「すげー」と「三流」~


 「先生どこの大学出たの?」僕が過去に勤めたA中学校の1年生の質問です。僕の返答に対する反応で、前者は加藤さん(仮名)、後者は須藤さん(仮名)という男子生徒でした。


 言い方を変えてみましょう。前者は「あなたは立派な学歴をもっていますね」となります。後者は「あなたは三流の学歴しか持っていませんね」ということですね。


 見事なほど対称的な生徒たちの反応でした。加藤さんにはともかく、須藤さんには「しまった」と思いました。 


 この後しばらくの間、学歴差別による「いじめ」を受けることになってしまったからです。


 彼は廊下で僕の顔をみるなり「三流」、「三流」とはやし立て、馬鹿にし続けました。2週間ほど続いたでしょうか。


 「そうなのかなあ」当時まだ教員経験年数が浅かった僕は、ただこう思っただけで生徒を適切に指導することもできませんでした。


 ただ幸いだったのは、彼に同調する生徒が誰もいなかったことでした。悔しい思いをしながらも、やがて自然消滅しました。 須藤さんは勉強がよくできる優秀な教え子の一人でした。


 小学校を卒業したばかりの4月。12歳です。中一の生徒から4月早々いじめられるとは思ってもいませんでした。でも冷静に考えてみると何か疑問に思えてなりません。


 この年頃の彼に大学の難易度ランキングなどわかっていたのでしょうか。「三流」という言葉は本当に彼自身からの言葉なのでしょうか。


 背後には親を始めとする大人たちの陰が見えるような気がします。ならば大人たちの代弁ですね。


 同じような質問は、その後A中学校の他の生徒からも、転勤後のB中学校でもありました。以後僕の答えは「東京の大学」にとどめることにしました。


 大切なことは過去ではなく、今現在です。目の前にいる生徒たちの前で何ができるか、何をしようとしているかということです。


 歴史上の人物で、学歴差別ではありませんが、学問そのものを権力者から差別的に扱われて攻撃された人物がいます。京都大学の教授で刑法学者の滝川幸辰(ゆきとき)です。


 1933年、彼の著書「刑法読本」が発禁処分にされ、文部省から強引に大学を休職にさせられてしまいました。


 これに抗議して、多数の教授たちが辞職し、1,300人もの学生たちも京大を退学しました。


 すさまじい抵抗で、歴史上「滝川事件」と呼ばれています。
 では、当時の文部省は著書「刑法読本」のどのような内容を問題視したのでしょうか。


1 犯罪は犯人の生活状態を改善しなければ少なくならない。刑罰によって犯罪をなくすこと
は不可能。

2 姦通罪について、妻の姦通罪だけを犯罪にし、夫の姦通を不問に付すのはよくない。

3 国家は革命家を敵として取り扱うのはよいが、道徳的に下等な人間として処置してはなら
ない。

4 犯人への報復的な刑罰を科すよりも、同情と理解をもって人道的に扱うべきだ。(4はト
ルストイの説を肯定したものです)

 文部省はこれらの内容を「共産主義的な危険思想」として断定したのです。はたして危険なのはどちらでしょうか。


 この年は国際連盟を脱退し、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、政府もつぶれてしまいました。滝川幸辰は戦後復帰して、京大の総長も務めました。


 この事件は日本の「反ファシズム運動の最後の輝き」と呼ばれています。