4 三条夫人 (1521 ~ 1570)3uwl1b





~気位の高さから地方を見下し夫に見放された悲劇の貴族~





 あまりにも有名な戦国大名、武田信玄の正室です。

 京の都に生まれ育ったお嬢様ですね。




 5人の子どもたちにも恵まれ、戦国最強の信玄に嫁いだわけですから、甲斐のファーストレ
 ディーとして心豊かな人生を送ったのではないか、と想像したくなります。

 


 しかし、現実には夫とは不和になり、生まれた子どもたちにも次々に悲劇がおとずれました。

 最終的には夫よりも早く、まるで子どもたちの後を追うかのように40代で亡くなっています。




 なぜなのでしょうか。




 1521年、内大臣三条公頼の娘として生まれました。

 今川義元の仲介により、16歳のときに信玄と結婚することになりました。




 ところが、信玄は初婚ではなかったのです。

 すでに別の娘と結婚をしていましたが、難産が原因で亡くなっていたのです。




 非常に気位の高い女性だったと伝えられる三条夫人は、もしかしたら最初からこの事実に不満があったのかもしれません。




 ましてや甲斐は山梨県。




 当時の都、京都からはあまりにも遠いところでした。

 なかなか都で育ったプライドがぬけなかったのでしょうか。




 信玄とは不仲だったと噂されています。




 都会育ちの娘が地方を見下す態度が少しでも垣間見えると、地方の男たちはいやな思いをしますね。




 これは現在でもよくある地方差別です。

 「郷に入れば郷に従え」 という言葉があります。




 三条夫人は、この意識がなかなか持てなかったのではないかと僕は考えています。

 彼女にふりかかる様々な悲劇の根本的な原因は、この意識の持ち方にあったのかもしれません。




 それでも1536年、嫡男の義信が生まれました。

 結婚から2年後のことです。




 喜びとともに、大きな期待を寄せたことはいうまでもありません。

 まさかこの長男が、自分よりも先に死ぬとは思ってもいなかったでしょう。




 このころが、三条夫人にとっては最も輝いていた時期です。

 夫は戦国最強と噂される武田信玄。




 いずれ天下を統一して、自分もファーストレディーとして京の都に凱旋できるのだという期待に胸を膨らませたことでしょう。




 3年後の1541年、次男の竜宝を出産しました。




 しかしこの次男は、盲目となってしまったのです。

 わが子の病に、三条夫人の深い悲しみが襲いました。




 それから2年後、長女の黄梅院を出産しました。

 後の北条氏政夫人です。




 信玄の三国同盟に使われた、政略結婚ですね。

 これは不幸な結婚になってしまいます。




 結局、三国同盟が崩れると、黄梅院は離縁させられて実家へ返されることになったからです。

 こんな形で甲斐には戻りたくなかったでしょう。




 三条夫人のプライドをずたずたにされるできごともおこりました。

 夫の信玄は、敵の信濃の諏訪頼重を滅ぼすと、こともあろうにその娘を側室にしたのです。




 諏訪夫人といいます。

 側室が敵将の娘です。




 「ふざけるな」 というのが、三条夫人の本音でしょう。

 1564年、諏訪夫人は勝頼を出産します。




 信玄から見れば四男にあたります。

 この四男が信玄の後継ぎになったことは、歴史上広く知られていますね。




 では、長男の義信はどうなったのでしょうか。

 残念ながら父と対立してしまいました。




 父への謀反の計画を立てましたが、これが事前に発覚。

 幽閉されたのです。




 1567年、長男の義信は自刃に追い込まれました。

 この悲劇に三条夫人は狂乱し、絶望のどん底に追い込まれたのです。




 その2年後には帰国したばかりの長女、黄梅院も病死します。




 心労が心労を呼んだのでしょうか。




 翌年、三条夫人は子どもたちの後を追うかのように、あっけなく亡くなりました。




 夫をはじめ、甲斐の家臣や一般民衆たちともっと心豊かに生きる道があったのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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3 武田義信 (1538 ~ 1567)3uwl1b





~政略結婚の犠牲になって若死にした強豪の嫡男~





 ここでいう強豪とは、戦国最強と謳われ、織田信長が最も恐れていた武田信玄のことです。

 義信は信玄の嫡男であり、正当な後継者です。




 利発で武勇にも優れ、将来を嘱望された武田家の期待の星でした。

 数々の戦いで活躍し、あの有名な川中島の戦いでも父とともに奮戦しています。




 一時は宿命のライバル、上杉謙信を後退させるほどの奮戦ぶりでした。

 しかし、義信の生涯はわずか30年。




 いったい彼の身に何があったのでしょうか。

 父親の信玄は、戦国時代を生き抜くために「三国同盟」 を結んでいます。




 自分の領国甲斐(山梨県) のお相手は、駿河(静岡県) と相模(神奈川県) ですね。

 今川義元と北条氏康との間に、子どもたちどうしの婚姻関係を結んだのです。




 典型的な政略結婚ですね。

 この中の一つとして、駿河の今川義元の娘が武田義信の妻に迎えられたのです。




 これ以前にも信玄の妹が義元の妻として嫁いでおり、武田と今川は三国同盟の中でも特に深い関係にありました。



 1560年、桶狭間の戦いがおこりました。




 状況は一変します。

 三国同盟の一角を担っていたリーダーの一人、今川義元が織田信長に討たれたのです。




 信玄は驚くとともに、逆にこの事件を駿河攻略の好機ととらえます。

 重臣、馬場信春も同じ考えです。




 義元を失った今川は弱くなってしまったのですね。




 今川の一武将であった松平元康(もとやす) は徳川家康として独立し、織田と同盟を結びました。




 信玄は、織田・徳川に接近して、今川の駿河攻略の準備を開始しました。

 これに真っ向から反対したのが、嫡男の義信です。




 政略結婚とはいえ、夫婦仲も睦まじかったのでしょうか。

 父とは全く意見が合いません。




 亡くなった義元の後継者、今川氏真(うじざね) も義信と連絡をとったといいます。

 何しろ氏真の母は信玄の妹であり、娘は義信の妻です。




 三国同盟をくずす信玄の方針を、黙って認めるわけにはいきません。

 義信が考えた末の結論は、信玄に対する謀反です。




 そういえば、信玄も自分の父である武田信虎を追放していましたね。

 父の信玄に代わって、自分が甲斐の領主になろうとしたのです。




 信玄も同じことをやっているので、歴史が繰り返しても不思議はありません。

 武田家の重臣、飯富虎昌(おぶとらまさ) も同意しました。




 ところが、義信が虎昌に宛てた手紙がどういうわけか、虎昌の弟、山県昌景(やまがたまさかげ) の手に渡ってしまいました。




 手紙の内容は、謀反を承諾したことに感謝する文が書かれていたのです。




 これは一大事と、昌景は信玄に密告しました。

 飯富虎昌をはじめ、この計画に加担した多くの家臣が処刑されました。




 義信は東光寺に幽閉されたのです。

 亡くなったのは2年後です。




 義信の妻は離縁させられて今川の下に戻されました。

 この間の詳細はわかっていませんが、最終的に義信は切腹に追い込まれたといいます。




 ほかに、病死説と信玄による毒殺説もあります。

 いずれにせよ、義信の心労は相当なものであったと考えられます。




 この親子の権力争いは、信玄が先手を打って勝ったということになります。

 しかし、信玄は義信を殺そうとまでは考えていなかったのではないでしょうか。




 この結末の後悔がついてまわったからです。

 彼が近臣に語ったと伝えられている言葉です。





 「義信さえ生きていれば、自分の死後の武田家は安泰なのに」




 武田家の権力を握っても自由になれず、権力を脅かす者に対する不安に振り回されることになりました。




 義信は、そこまでして甲斐の国の権力を奪おうとしたのでしょうか。




 背景にある差別心から解放されていれば、もっと家臣や一般民衆とも仲良く楽しく生きることが可能だったのではないか、と僕は考えています。
2 毛利隆元 (1523 ~ 1563)3uwl1b






~劣等感と重圧からの心労で自滅した強豪の長男~






 強豪とは、中国地方最強の戦国大名、毛利元就(もとなり) のことです。

 隆元は長男であり、嫡男です。




 父元就の中国地方統一になくてはならない人物で、数々の武功をあげました。

 高い知識と教養を身につけ、優れた内政手腕も発揮しています。




 信義に厚い、謙虚実直な人物と評されています。

 しかし、その隆元はわずか41歳の生涯で、親よりも早くなくなってしまいました。




 この背景には、いったい何があるのでしょうか。




 隆元が生まれたころは、毛利の勢力はまだ小さくて目立ちませんでした。




 現在の山口県東部にあたる周防(すおう) の戦国大名、大内義隆に従属する一小領主にすぎなかったのです。




 だから、嫡男である隆元は、大内氏の本拠地山口へ人質として出されてしまいました。

 1537年のことです。




 10代の多感な時期をここで過ごしましたが、義隆からはたいそう気に入られました。

 元服のときも隆の文字もらっています。




 彼が隆元と名のったのはこのためです。

 親元を離れて不自由な面は多々あったでしょう。




 緊張も多かったのではないでしょうか。

 しかし、意外にも待遇が良く、必要以上に穏和な性格になっていきました。




 文芸や遊興を覚えたのも人質時代です。




 覇気の足りないお坊ちゃんという感じで、鷹狩りを止めて絵画や仏典写経に夢中になった時期もありました。




 幸いにも、大内義隆からの信頼が絶大になり、1540年には毛利の本拠である安芸(広島県) の吉田郡山城に戻ることが許されました。




 1546年、父元就から家督を譲られ、毛利家の当主になります。

 しかし、実権は元就が持ち続け、隆元は生涯自分の思う通りにはなりませんでした。




 毛利家繁栄のためなら二枚舌外交や暗殺など、権謀術数を平気でやっていた父からは 「優柔不断で武将としての資質に欠ける長男」 と見なされていました。




 隆元も正直すぎて、周囲からも心配されっぱなしでした。

 自分に自信がなく、平素から 「私は無器量無才覚だ」 と自嘲する始末です。




 彼の2人の弟たちは、政略結婚で他家へ行っていましたが、強烈な個性の持ち主でした。

 次男は吉川元春(きつかわもとはる) です。




 生涯不敗を誇る猛将で、兄をはるかに上回る武勇の持ち主でした。

 三男は小早川隆景(こばやかわたかかげ) といいます。




 毛利水軍を統率し、豊臣秀吉からも一目置かれた智将でした。

 天下をとる可能性まであると恐れられました。




 これに対し、隆元には確固たるアピールの要素が弱く、比較されて苦しんだのではないでしょうか。



 強烈な父や弟たちに囲まれて、結構つらい立場にあったと考えられますね。

 兄弟ゲンカはもちろん、一族を束ねる責任もあり、心労が重なっていったと思います。



 隆景からは 「方針が温かすぎる」 と苦言を呈されています。




 それでも、毛利家の財政を統括すべく五奉行制度や官僚組織を構築し、各種家訓や法度も定めました。



 大内氏を滅ぼした重臣陶晴賢(すえはるかた) との厳島の戦いでは、元就に決戦を促し、ともに戦って勝利に貢献しています。




 九州の大友氏とも勇敢に戦って奮戦しています。




 元成が山陰の尼子氏と戦っているときにも、この隆元の北九州での奮戦が大きな役割を果たしたのです。




 だから、毛利氏は中国地方を統一できたのですね。




 1563年、隆元は九州戦線から山陰の戦線へ転進する途上、謎の腹痛に襲われて急死しました。




 原因ははっきりしていませんが、長年の慢性的な重責と心労が関係していたと考えるのが自然でしょう。




 自分は自分。




 親や兄弟と比較せず、自分の持ち味を誇りにしてのびのび生きれば、もっと違った人生を送ることができたのではないかと僕は考えています。
1 松平広忠 (1526 ~ 1549)3uwl1b






~強豪に挟まれて心労を重ね見捨てられた三河の戦国大名~






 あまりにも有名な徳川家康のお父さんです。

 後に300年近く続いた日本史上屈指の強力政権、江戸幕府の元祖になる人物ですね。




 家康の父親だから、さぞかししっかりした人物かと思いきや、その実態には程遠いものがあります。



 苦難続きの人生を歩み、何も報われなかったのではないだろうかと思えるほど苦労が多かった人です。




 あげくの果てにわずか20代の若さで悲運の死を遂げています。

 彼の身にいったい何があったのでしょうか。




 1526年、広忠は松平清康の嫡男として、愛知県岡崎市で生まれました。




 当時三河(現在の愛知県東部) は、東に駿河の今川義元、西に尾張の織田信秀(信長の父) に挟まれていました。




 どちらも松平氏にとっては強豪で、常に緊張が続く状態でした。

 こんな中でも清康は剛毅な性格で、何度かの戦いで奮戦し、三河一国を統一しています。




 織田に圧力をかけるほど、強力な勢力を築くことができました。

 しかし、不幸が突然訪れます。




 広忠が13歳のときでした。

 父の清康が尾張の守山というところで、家臣に誤殺されてしまったのです。




 この事件は歴史上「守山崩れ」 と呼ばれています。

 たちまち織田軍が攻めてきました。




 13歳の広忠が、どうして大将として戦えましょうか。

 苦戦はしましたが、叔父や曾祖父が中心になって織田軍を撃退することができました。




 命拾いです。

 ところが、一難去ってまた一難。




 この叔父や曾祖父によって、広忠は国を追われました。

 たった7人の家臣を連れて、伊勢に逃亡する羽目になったのです。




 領地を奪われた幼い当主の悲惨な逃亡劇ですね。

 その後、現在の静岡県西部である遠江(とうとうみ) まで逃げました。




 そこで手紙を書きまくり、親戚一族との和睦に持ち込むことに成功しました。




 志半ばで倒れた父清康の影響もあったのでしょうか、結局多くの家臣が帰参し、広忠は念願の本拠地岡崎に帰還できたのです。




 一時は広忠暗殺計画も噂され、夜も眠れなかったことでしょう。

 1541年、広忠は16歳で結婚します。




 相手は14歳の於大(おだい) という女性で、近隣の城主水野忠政の娘でした。

 翌年長男が誕生し、松平竹千代と名づけられました。




 これが後に、徳川家康になる人物ですね。

 しかし、この結婚は3年ほどしか続きませんでした。




 1544年、広忠は妻於大と離縁し、実家の水野家へ強制的に返しました。

 理由は、実家の父の後を継いだ息子の水野信元が、織田方に就くことを表明したからです。




 妻本人に何の責任もありません。

 1547年、織田信秀が三河に攻めてきました。




 広忠は今川義元の援助を何回も受けていて、このときも援軍を要請したのです。

 その見返りとして嫡男竹千代の人質を要求されます。




 しかたなく、駿河へ出すことになりました。

 ところが事件がおこります。




 途中の愛知県田原というところで、竹千代は織田方に奪われて尾張へ連れて行かれたのです。

 人質の横取りですね。




 この緊急事態に、広忠は竹千代を見捨てます。

 今川が怖かったのでしょう。




 織田からの同盟の誘いを断りました。

 家臣からは相当な反発が出ています。




 後の徳川家康も、この幼少時から大変な目にあっていますね。

 いつ殺されてもおかしくありません。




 広忠はまたしても、心労に心労を重ねることになりました。

 この時点で、家臣団からの不信があちらこちらに出てきていました。




 1549年、ついに広忠は家臣の岩松八弥に暗殺されます。

 わずか24歳の若さでした。




 敵は織田でも今川でもなく、自分の家臣だったのです。




 弱小の戦国大名の悲劇を、絵に描いたようなできごとですね。




 広忠の生き方のどこかで、方針転換が必要だったのではないでしょうか。