8 藤原道長 (966 ~ 1027)






~権力を手にして怨霊におびえ続けて壮絶死した摂政~






 摂関政治の黄金時代を築いた有名人ですね。




 「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」 で始まる短歌は、道長が権力をほしいままにしたことを凝縮した歌として広く知られています。




 数々のライバルたちを蹴落とし、4人の娘たちを次々に天皇の妃にしました。

 平安時代中期の権力の第一人者で、その栄華を謳歌した人物です。





 しかし、なぜか彼の晩年は怨霊におびえ続け、最期は絶叫しながら死んでいった痛々しいものであったことをご存知でしょうか。




 父の藤原兼家(かねいえ) は摂政です。

 兄たちは相次いで病死したので、道長は幸運にも順調に出世していきました。




 995年に内覧(ないらん) という天皇の補佐をする職に就きました。




 この裏には実の姉であり、一条天皇の母親でもある藤原詮子(せんし) が天皇に決めさせたという事実があります。




 姉を味方にしておくと強いですね。




 これで兄道隆の子であり甥にあたる藤原伊周(これちか) との出世競争に勝利することになったのです。




 翌年には左大臣、1000年には娘の彰子(しょうし) を強引に一条天皇の中宮に取りたてさせました。




 1016年には次の三条天皇を退位に追い込み、自分の孫である後一条天皇をわずか9歳で即位させ、摂政に就任しました。




 2年後にこの後一条天皇の中宮になるのも道長の四女である威子(いし) だったのです。

 こうなるともう怖いものなしですね。




 藤原道長の絶頂期の到来です。

 冒頭の短歌はこのときに詠まれたものでした。




 しかしその裏では、あまり広く知られてはいませんが、さまざまな権力争いと身内の不幸が相次いでおこっていたのも事実です。




 1018年には、一条天皇の第一皇子である敦康親王(あつやすしんのう) が20歳の若さで死にました。




 母親はすでに亡くなっていましたが、一条天皇が終生愛し続けた藤原定子です。




 本来なら天皇になるべき人でしたが、敦康親王は道長が反対したため、ついに即位することができませんでした。




 後ろめたさから、道長は怨霊に苦しみました。

 次に即位した三条天皇が皇太子にしたのは、敦明親王(あつあきらしんのう) です。




 親王の妻は藤原延子(えんし) といって藤原顕光(あきみつ) の娘でした。

 これにも道長は待ったをかけます。




 親王に圧力をかけて皇太子から降ろさせ、道長の19歳になる娘、寛子(かんし) を嫁がせたのです。



 ところが、まもなく顕光と延子が絶望と怨念の中で亡くなっただけでなく、寛子までもがあっけなく亡くなってしまいました。




 これにはますます怨霊の噂が広がりました。




 寛子の死から1ヶ月後、道長の六女嬉子(きし) が亡くなり、その2年後には息子の顕信(あきのぶ) も急死しました。




 先に三条天皇に嫁いでいた道長の二女妍子(けんし) や四女威子も顕光親子の怨霊に悩まされ続け、やがて妍子は34歳の若さで亡くなってしまいました。




 相次ぐ子どもたちの不幸に、さすがの道長も心労で焦燥します。

 胸が病める発作に見舞われるようになりました。




 体重が急激に落ち、のどが渇き、視力も衰えました。

 糖尿病の症状ですね。





 1019年、ついに道長は出家します。

 「病に悩まされて地獄に落ちたくない」




 この一心で必死に念仏を唱え続けました。

 しかし、胸の激痛にのたうち回り、泣き叫ぶ日々が続くというありさまでした。




 痛さで絶叫しても周囲をはばかる余裕すらありません。

 狭心症も併発していたようです。





 こうして栄華を誇った道長は、もがき苦しみながら63年の生涯を閉じました。

 相手かまわず権力に突っ走った男の自業自得の末路ですね。





 人を支配しようとする権力欲とその背景にある差別心。





 もっと謙虚にさわやかに生きる道はなかったのでしょうか。
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7 藤原定子 (977 ~ 1000)





~同族の権力争いの犠牲になり若死にした才色兼備の皇后~





 生涯、一条天皇に愛され続けた藤原定子(ふじわらのていし)。

 仲の良い夫婦で、3人の子どもにも恵まれました。




 美貌で明るく、知性と教養が豊かでした。

 「枕草子」 で有名な清少納言が仕えた女性でもあります。




 その人柄はつんつんとしたところが一つもなく、周りの者にも好かれ、朗らかに行動することができました。



 しかし、定子の生涯はわずか24年。




 いったい、彼女の身に何があったのでしょうか。




 977年、定子は藤原氏の中でも日の出の勢いで、後に摂政や関白にも就任することになる藤原道隆の長女として生まれました。




 父親は明朗で、群を抜いたハンサムな男性です。




 陽気で、いつも冗談を言っては周りを朗らかにする性格でした。

 母親は宮中に仕える女官で、漢文学者でもある才能豊かな人でした。




 定子は両親の良いところを受け継いで、魅力的な女性に成長していったのです。

 994年、定子が14歳のとき、早々と入内することになります。




 相手はまだ11歳の一条天皇です。

 妻というより、聡明できれいなお姉ちゃんという感じですね。




 天皇はたいそう定子を気に入り、かたときもそばを離れなかったほど頼りにしていました。

 勉強も見てもらったのです。




 政略結婚とはいえとても仲が良く、これは生涯続きました。




 彼女が17歳のときから始まった文学サロンは後に「定子サロン」 ともよばれ、清少納言も活躍して大繁盛しました。




 中学校の国語や高校の古文でおなじみの名作「枕草子」 はここで生まれることになるわけですね。



 しかし、身内の不幸が突然おこります。




 995年、父の藤原道隆が病死してしまいました。

 病名は糖尿病と考えられています。




 19歳の定子は大きな後ろ盾を失うことになります。

 次に実の兄、藤原伊周(これちか) とその弟隆家が流罪になりました。




 元天皇だった花山法王に矢を射かけたことをとがめられたものです。




 原因はある女性をめぐって奪い合うというトラブルで、兄たちは誤解で花山法王に腹を立てたのです。



 これはちょっと格好よくないですね。

 その上母も病死して、心の支えを次々に失うことになりました。




 たまたま、定子は兄たちが引き立てられていく姿を目の当たりにすることになったのです。

 その衝撃は強烈で、大きなショックと心労に見舞われることになりました。




 身内の不祥事に責任を痛感し、出家を決意します。




 一条天皇はそれを引きとめたり、わざわざ人目を忍んで会いに行ったり、出家した定子を宮中に呼び戻したりしました。




 この天皇の愛は、本物ではないでしょうか。

 しかし、さらに心労に追い打ちがかかります。




 チャンスとばかりに叔父の藤原道長が娘の彰子(しょうし) を入内させ、強引に一条天皇の中宮にさせたのです。




 もちろん、自分が権力を握るためですね。




 これまで中宮だった定子は皇后になりましたが、これは前例のないことです。

 後ろ盾がすべてなくなった彼女は、自分で自分を差別することになってしまったのでしょうか。




 犯罪者の妹でもあり、一度出家したことに対する周りの人々の冷たい目線にも悩まされました。

 そして、運命の1,000年、第3子を出産した翌日、定子はその短い生涯を閉じました。




 直接の死因は難産だったとか、出血多量とかいわれています。




 しかし、この早すぎる死には、定子の実家の度重なる不幸と強い心労が無関係なはずはないと僕は考えています。




 権力争いの犠牲者ですね。




 身内がどうであれ、一人一人の人間がもっと大切にされ尊重されていれば、定子はもう少し心身ともに健康な一生を送ることができたのではないでしょうか。
6 醍醐天皇 (885 ~ 930)





~親政を実行したが怨霊に悩まされ悶死した平安の天皇~





 平安時代の藤原氏の摂関政治が台頭する中で、天皇親政を34年にわたって実行した人物として知られています。



 その治世は「延喜の治」 と称され、後の時代からも天皇親政のお手本としてたたえられました。




 和歌にも優れ、万葉集に選ばれなかった歌をはじめ、当時までの優れた歌を選んだ勅撰和歌集が有名な「古今和歌集」 です。




 しかし、醍醐天皇の最期は、46歳の若さで悶死するという痛ましいものでした。




 いったい彼の身に何があったのでしょうか。




 彼は臣籍に生まれた唯一の天皇でもあります。

 最初は源維城(みなもとのこれざね) と名のっていました。




 のち、父の即位とともに皇族に列し、即位した宇多天皇の第一皇子になったのです。

 9歳で立太子、13歳で即位しました。




 現在でいえば中学1年生ですね。

 20人近い妻と36人の子どもにも恵まれました。




 一生のうち、実にその70パーセント以上を天皇として生きました。




 摂政や関白は置きませんでしたが、藤原時平、菅原道真という優秀な部下に恵まれ、それぞれ左大臣、右大臣として政治にあたらせました。




 901年、事件が起きます。




 左大臣藤原時平からの知らせによると、菅原道真が、醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう) を、天皇として即位させようとしているというのです。




 斉世親王には道真の娘が嫁いでいました。

 同時に、これが実現すれば、自分は退位することになりますね。




 「冗談じゃない」 というのが本音でしょう。

 自分の権力を脅かす者の登場です。




 醍醐天皇は必死になって自分の地位を守ろうとしたのです。

 すぐに道真の右大臣職を解き、九州大宰府への左遷を決めています。




 当事者の道真の言い分は聞こうともしませんでした。

 実はこれが後に命取りになったのです。




 かたくなになった彼は、時平を全面的に信用したので、父親の宇多上皇とも会おうとせず、話も全く聞きませんでした。




 九州へ流された道真は、失意のうちにその2年後に無念の死を遂げています。




 ところがその6年後、頼りにしていた時平がわずか39歳の若さで亡くなったのです。

 この909年からの3年間は、疫病がはやり、日照りにも悩まされました。




 道真の怨霊が噂されはじめます。

 醍醐天皇は、父宇多上皇の享楽的な生活に影響を受け、政務よりも風流に関心がありました。




 詩宴や遊びに明け暮れる彼らの目に、度重なる凶作や疫病に倒れる京都の庶民の姿はどう映っていたのでしょうか。




 923年、醍醐天皇の皇太子が亡くなり、次の皇太子もその3年後に亡くなりました。




 ますます怨霊の噂は広まるばかりです。

 怖くなったので、道真を左遷した詔を覆し、右大臣に復したうえで贈位を行いました。




 これでも不安と心労は亡くなりませんでした。

 930年、極めつけの事件がおこりました。




 京の都の清涼殿を、突然落雷が襲ったのです。

 黒こげになる朝廷の役人たち。




 恐ろしい風景が目の前に現れました。




 大納言の藤原清貫(きよつら) をはじめ、公卿数人が落雷の直撃を受けて焼け死に、醍醐天皇自身も負傷しました。




 その強い衝撃でさらに体調を崩し、同年ついに天皇を辞めてしいました。

 その7日後には出家しましたが、同日苦しみの中で46年の生涯を閉じたのでした。




 九州への道真の左遷は勇み足でしょう。




 権力をほしいままにした人物が、少しでもその権力を脅かされるとたちまち小心者になり、過剰な反応を示すことがあります。




 醍醐天皇の晩年は、その典型的な例といえますね。




 高いところから人を見下ろす差別心から解放されて、的確な判断を大切にすれば、大きな心労で悶死することを避けることができたのではないでしょうか。
5 藤原時平 (871 ~ 909)






~出世を急いで無理をし、怨霊に悩まされた平安の左大臣~






 「出世」 とは時平(ときひら) の場合、摂政や関白になることを意味します。

 「無理」 とは菅原道真を九州へ左遷させたことで、「怨霊」 とはその道真の怨霊です。





 時平も優秀な政治家で、醍醐天皇(だいごてんのう) からの信頼が厚く、荘園整理令をはじめとする律令制の再編強化の諸法令を制定して政務に励みました。





 しかし、彼の最終出世目標はついに達成されず、わずか39歳の若さで一生を終えることになったのです。





 なぜでしょうか。





 871年、時平は藤原氏初の関白、藤原基経の長男として生まれました。





 父の威光で、886年の元服のときには、当時の光孝天皇(こうこうてんのう) 自らが加冠役を務めました。




 笑い上戸で、好色でも有名でした。

 叔父の妻に横恋慕し、これを奪うという「事件」 も起こしています。





 890年、20歳で参議になりました。

 とても早い出世の第一歩ですね。





 しかし翌891年、父基経は時平がまだ21歳のときに他界してしまいました。

 897年、時平が26歳になったとき、醍醐天皇が即位しました。





 その2年後には、醍醐天皇のもとで左大臣になりました。

 このときの右大臣が、有名な菅原道真です。





 年長で優秀な学者であった道真は、時平にとってはやりにくい相手だったのでしょう。

 追い落としを企てます。





 道真を大宰府へ左遷するよう、醍醐天皇に進言したのです。

 口実は以下の通りです。





 「道真は醍醐天皇を退位させ、娘婿である弟の斉世親王(ときよしんのう) を即位させようとしています」




 901年、道真は右大臣の地位を奪われ、太宰権師(だざいのごんのそち) という役職に転じられ、九州へ左遷されました。




 そして2年後、失意のうちにそこで亡くなったのです。




 さらに時平は、自分の妹を強引に醍醐天皇の中宮にすえ、生まれた子を皇太子にしました。

 これで摂政・関白への道筋ができましたね。




 皇太子は自分の甥になるわけです。

 一刻も早く天皇になってほしいと願ったことは、容易に考えられます。




 ところがそうはいきませんでした。




 時平の死後ではありますが、この皇太子は結局天皇にならず、923年に亡くなっています。

 道真を失脚させた後、京の都ではやたらと雷が多くなりました。




 同時に、この異常気象は道真の霊による祟りだという噂が広がり始めました。

 ならば、祟りの矛先は明白です。




 時平は後悔し、この怨霊に苦しむことになったのです。

 自分の行いに、やましいところがあったからですね。




 怖くて自分の力ではどうしようもなかったのでしょう。

 ついに天台宗の僧、浄蔵(じょうぞう) を招き、加持祈祷を行わせました。




 怨霊を払いのけようと、必死になっている姿が浮かんできます。




 さらに、呪い殺されることのないように、道真の肖像を一年中掲げ、この肖像に向かって音楽を供していました。





 ここまでやらなければならなかったのでしょうか。





 こうなるともう心労を通り越して、半ば病気という感じすらしますね。

 明けても暮れても道真の怨霊に振り回され、逃げ回っている小心者になってしまいました。





 しかし、時平の「努力」 は報われなかったのでしょうか。

 道真の死からわずか6年後、39歳という若さでこの世を去ることになりました。





 残念ながら、死因は正確にはわかっていません。

 道真の怨霊にやられたという噂だけが広まり、現在まで伝わっています。





 時平はまじめな努力家だったことを考えると、僕は身体の過労と霊を恐れる心労が重なりあい、何らかの病気を誘発したのではないかと思います。





 権力の獲得を急ぎすぎた男の末路をここにも見るようですね。

 身分差別の意識から解放されなかった結末です。





 もう少し、ゆっくりと気長に生きて、人生を楽しむ道もあったのではないでしょうか。