2 足利尊氏 (1305 ~ 1358)3uwl1b





~身内までが敵対し疲れ果てて病死した征夷大将軍~





 室町幕府を開き、200年以上にわたって続いた新しい室町時代を築いた有名人ですね。

 この時代の武士たちからの信望が厚い人物でした。




 戦いに勝てば、リーダーとして気前よく恩賞を分け与え、武士の権力の頂点に立つことができました。



 しかし、将軍になってからの彼は、優雅な生活とは程遠いものがありました。




 心身ともに疲れ果て、仏教に救いを求めて悩み続ける毎日を送ることになったのです。

 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 1305年、尊氏は鎌倉幕府の有力御家人、足利貞氏の次男として生まれました。

 残念ながら、彼の前半生は主だった記録がなく、詳しいことはほとんどわかっていません。




 ただ、足利家は、八幡太郎と呼ばれた源義家につながる源氏の名門であったことははっきりしています。



 義家の息子の義国が足利の地に領地を得て、源氏の分家としての足利氏が誕生したのです。




 古くから従う武士も多かったわけですね。

 彼が歴史に登場するのは、後醍醐天皇が倒幕の兵をあげてからのことです。




 鎌倉幕府の京都の出先機関であった六波羅探題を滅ぼして、建武の新政という朝廷の権力復活を決定的なものにしました。




 しかし、鎌倉幕府が滅びた後、一時北条氏によって鎌倉を占領されます。




 北条高時の息子である時行が生きていたのです。

 歴史上、中先代の乱(なかせんだいのらん) とよばれるできごとです。




 尊氏は後醍醐天皇を無視して、この乱を鎮めに関東へ行ったのでした。

 これは、天皇に敵対したことを意味します。




 楠木正成や新田義貞などの名将も敵に回して苦戦します。

 九州まで落ち伸びて、自殺までほのめかすほど追い込まれました。




 朝敵の汚名がついてまわっていたからですね。

 朝廷の権威を示すこの「朝敵」 という言葉には威力があります。




 まるで、常に朝廷だけが「正義の味方」 のように聞こえてしまいますね。




 尊氏が逆転したのは、この朝敵の汚名がとれたときからです。

 光厳(こうごん) 上皇が院宣を出してくれたからです。




 結局、湊川などその後の戦いで勝利した尊氏は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、晴れて室町幕府を開くことができたのです。




 しかし、問題はここからです。




 後醍醐天皇が病死した後も南朝は健在で、尊氏はまだ全国を統一したとはいえない状態でした。

 予想外だったのは、苦楽を共にしてきた弟、足利直義(ただよし) との意見の対立でしょう。




 直義は足利氏の重臣である高師直(こうのもろなお) と合わず、一方的に殺害してしまったのです。



 ついに尊氏は弟を敵に回して戦うはめになってしまいました。




 直義は敵であった南朝と手を組んで尊氏に敵対しました。

 歴史上、観応の擾乱(かんのうのじょうらん) と呼ばれる戦いです。




 この戦いの中で尊氏は直義を毒殺したといわれていますが、真相ははっきりしません。

 さらに、尊氏の庶子で直義の養子になっていた足利直冬(ただふゆ) も尊氏に敵対しました。




 もう、戦いだらけですね。




 骨肉の争いに、心身ともにくたくたになってしまったことでしょう。

 疲れ果てた尊氏は、仏教に救いを求めるようになりました。




 戦死した多くの人々を弔うために写経をしました。

 十万体の地蔵をつくったり、寺院を建立したりもしました。




 信仰によって、度重なる心労から逃れようとしたのでしょう。




 尊氏の最期は、直冬との戦闘で受けた矢傷がもとで亡くなったとか、背中に腫れものができて、その毒が全身に回って亡くなったともいわれています。




 いずれにせよ、死ぬまで解放されることなく、天下統一は見ていません。




 幕府を開いて将軍としての権力を握ってからのほうが、よほど大変だったと考えるのは僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
1 後醍醐天皇 (1288 ~ 1339) 3uwl1b






~権力を握り民衆や公家からも見放された南朝の天皇~






 武士全盛の時代に、政治権力を朝廷に取り戻したことで有名な天皇ですね。




 朝廷の側から見れば、何度も失敗して苦労しながら、天皇や貴族の権威を再び高めた英雄といえます。




 後醍醐とは、平安時代に天皇親政を積極的に行った醍醐天皇に続く者という意味です。




 しかし、「建武の新政」 とよばれた後醍醐天皇の政治は、2年余りでその幕を閉じ、最後は京都から事実上追放されて失意のうちに病死しました。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 後宇多天皇の第二皇子として生まれた彼が、天皇として即位したのは30歳を過ぎてからです。

 長い間、忍耐強く時が来るのを待っていました。




 この時代は皇室そのものが2つに分かれ、交互に即位していたのでなかなか天皇になることができませんでした。



 1324年、後醍醐天皇は貴族たちと鎌倉幕府をつぶす計画を立てました。




 これは事前に幕府にもれて失敗しました。

 天皇はうまく罪を逃れましたが、関係した貴族たちは罰せられました。




 正中の変といいます。

 7年後、再び討幕計画を立てますがまた失敗です。




 しかし、今度は天皇も捕えられました。

 奈良県の笠置山に立てこもりましたが、20万人の幕府軍に敗れ、隠岐に島流しにされました。




 それでも後醍醐天皇はあきらめません。

 隠岐を脱出して名和長年(なわながとし) や楠木正成らを従えて幕府軍と戦いました。




 最終的には足利尊氏や新田義貞が味方になり、1333年、ついに鎌倉幕府を滅ぼしました。

 リーダーシップを発揮し、執念と努力で念願をかなえました。




 しかし、問題はここからです。




 手柄のあった武士たちを差別的に扱い、大きな反感を買います。

 恩賞は貴族たちに厚く、武士を軽視しました。




 あくまでも朝廷が優先で、武士や一般庶民を見下していたのですね。

 内裏建築のために、増税も行いました。




 これでは民衆からも支持されませんね。

 突然、二条河原の落書が掲げられます。




 「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨(りんじ)」 にはじまる落書は、民衆が建武の新政を風刺したものとして有名になってしまいました。




 綸旨(りんじ) とは、天皇の命令のことですね。

 反感を抱いたのは武士や民衆だけではありません。




 実は貴族もそうなのです。




 後醍醐天皇は近臣の日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと) らと衣冠(いかん) を脱いで裸に近い姿で飲食をしました。




 その席には17歳~18歳の美女20人余りを侍らせ、肌が透けるような単衣(ひとえ) を着せていたのです。




 つまり、現在でいう乱交パーティーですね。




 この天皇の振る舞いは、たちまち都中の噂になったのです。

 天皇は真言立川流の僧文観(もんかん) のすすめによって、無礼講の乱交をよく行いました。




 性行為を多く経験することで「強い呪力が得られる」 というものです。

 これは誰が考えてもちょっと疑問ですね。




 多くの貴族たちは、後醍醐天皇は勝手な理屈をつけて、自分の好色を正当化していると考えました。



 これでは朝廷の貴族たちからも見放されてしまいますね。




 事実、南北朝の争乱が始まると、多くの貴族たちは後醍醐天皇の南朝を見放し、北朝につきました。
 


 1336年、足利尊氏は京都で光明天皇を立てました。




 これが北朝で、2年後には尊氏が征夷大将軍に任命されました。

 室町幕府の成立です。




 奈良県の吉野に逃れた後醍醐天皇は、それでも自分が正当の天皇であると主張して戦い続けました。



 吉野は深い山の中です。




 都育ちの彼にとっては、これだけでも相当な心労だったことでしょう。

 武士から見放され、民衆からも見放され、貴族からも見放されて京都にいられなくなりました。




 室町幕府成立の翌年、後醍醐天皇はついに都に戻れないまま、吉野で病死しました。




 もう少し、武士や民衆の立場に立ち、差別心から解放されていれば都にいられたかも知れませんね。
6 楠木正成 (1294 ~ 1336) 3uwl1b






~権威に翻弄され自殺に追いこまれた建武の新政の立役者~






 鎌倉時代と室町時代の間に、一時天皇が直接政治を行った時期がありました。

 歴史上有名な後醍醐天皇の「建武の新政」 です。




 この新しい天皇の右腕となって、大きな役割を果たした武将が楠木正成です。

 武芸に優れた名将で、歴史を塗り変えた人物として広く知られていますね。




 しかし僕は、正成は「天皇の権威によって生かされ、権威によってつぶされた」 悲劇の武将でもあるとも考えています。





 なぜでしょうか。





 正成の生年は1294年としましたが、正確かどうかはわかっていません。

 彼の前半生はほとんど不明だからです。




 楠木一族は河内(現在の大阪府南部) の地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の地方豪族といわれています。




 鎌倉時代末期は、幕府の支配に従わなかったので「悪党」 と呼ばれていました。




 正成が歴史に登場するのは1331年、後醍醐天皇が京都で倒幕の兵をあげた時からです。

 時代はすでに武士の時代になっています。




 さすがに巨大な幕府の軍事力に恐れをなして、倒幕勢力に加わる者はわずかでした。

 この中に正成の姿があったのです。




 河内の赤坂城や千早城では幕府の大軍を相手に、少ない兵で大きな活躍をしました。




 戦上手で、ゲリラ戦法や糞尿攻撃、人形や大きな石を使った戦法で、相手の意表をつく戦いをしました。




 後醍醐天皇も絶大なる信頼を正成に寄せるようになりました。

 鎌倉幕府を滅ぼす第一歩は、彼が築いたのですね。




 建武の新政が始まると、正成は河内・和泉の守護に任命されました。




 しかし、恩賞をはじめとする後醍醐天皇の武士たちへの扱いは、貴族たちに比べると極めて不公平なものでした。




 やはり差別的に扱ったのですね。

 武士たちの不満が日に日に高まる中で、ついに足利尊氏が反旗を翻したのでした。




 これは尊氏個人というよりも、当時の武士全体の意志と考えるべきものでしょう。

 朝廷軍の武士たちでさえ、多数尊氏のもとへ走ったからです。




 正成も後醍醐天皇に涙ながらに進言しました。

 「どうか尊氏と和睦してください」




 正面からの戦いでは絶対に勝てないと確信していたからです。

 「勝ったのに和睦を求めるのは不思議じゃ」




 公家たちに嘲笑されてしまいました。

 天皇は公家たちの意見を採用したのです。




 ここで正成は引き下がってしまいました。

 「戦いのことは武士にお任せください」




 などともっと強気の発言をすることは難しかったのでしょうか。

 ついに尊氏との戦いです。




 正成の作戦は

 「天皇は比叡山に避難してください。




 尊氏が入京したところを楠木軍と新田軍が挟み撃ちにします」

 という頭脳的なものでした。




 しかし、次の公家の一言で却下されてしまいました。

「それでは天皇の体面が悪い」




 正成の死が確定した瞬間ですね。




 尊氏軍35,000にたいして楠木軍はわずか700。

 50分の1です。




 これでは正攻法で「死ね」 と言われているのと同じですね。

 事実、正成はこの戦いで命を落とします。




 1336年、湊川(みなとがわ) の戦いの火ぶたが切って落とされました。

 力の限り奮戦しましたが、正成はここを死に場所と決心しました。




 6時間後、逃げられる部下は逃がし、最後まで残った72名と民家に入りました。

 ここで念仏を唱えて家屋に火を放ち、炎の中で全員が自刃しました。




 後醍醐天皇と公家たちに自殺を命じられたのと同じですね。




 朝廷からの差別を乗り越える方法はなかったのでしょうか。




 それができれば、もっと長く、もっと有意義に生きのびることができたかも知れない、と考えるのは僕だけでしょうか。
5 北条守時 (1295 ~ 1333)





~飾り物にされて自殺に追い込まれた最後の執権~





 執権といえば、鎌倉幕府の実質上の最高権力者です。

 その第16代の執権が守時(もりとき) でした。




 32歳の若さでこの職に就任した彼は、その後7年間在職し、熱心に政務をつかさどりました。

 文化人でもあり、「続現葉和歌集」 には守時の詠歌も納められています。


 

 しかし、最終的に彼は、39歳の若さで絶望の中で自殺に追い込まれています。

 いったいこの執権の身に何が起こったのでしょうか。




 守時の出身は北条氏の嫡流である得宗(とくそう) ではありません。

 分家の赤橋家です。




 だから彼は赤橋守時とも名のっていました。




 しかし、鎌倉時代の末期は得宗が専制的な政治を行い、その直属の家臣である御内人(みうちびと) が御家人よりも大きな発言力をもっていました。




 中でも内管領という職は、得宗の家督相続者とともに実質上の最高権力を握っていたのです。

 この時点で守時は、どちらにも該当していませんね。




 それでも本人の努力があったのでしょう。

 若いころから順当に出世していきました。




 13歳で官位を叙任され、4年後に評定衆に任命されています。

 さらに、引付衆(ひきつけしゅう) の一番頭人を経て、ついに執権に就任したのでした。




 しかし、この就任には問題がありました。

 当時政変が次々におこっていて、北条氏の中に執権のなり手がいなかったのです。




 「じゃあ私がやる」 ということで、就任してしまったのです。

 これが運命の分かれ道になってしまいました。




 本家である得宗の当主は北条高時でした。




 病弱で主体性がなく、賄賂や強訴、不当な採決が横行し、御家人たちから反感を買っていました。




 「悪党」 と呼ばれる下層から成り上がった新興勢力も台頭し、幕府に従わなくなっていたのです。



 幕府内のいざこざに嫌気がさした高時はいきなり出家しましたが、それでも幕府の事実上の最高権力は放しませんでした。




 守時もこの状況には苦慮しています。

 ストレスから胃痛に悩まされるようになりました。




 守時の妹は足利尊氏と結婚していました。

 後の室町幕府を開いたことで有名な人物ですね。




 その妹の夫である尊氏が鎌倉幕府を見捨てて、後醍醐天皇についたことは大きなショックだったことでしょう。




 やがて尊氏は、京都の幕府出先機関である六波羅探題(ろくはらたんだい) を攻め滅ぼしました。




 勝負あった瞬間ですね。




 ところが、この責任をとらされて、守時は高時から謹慎を申しつけられているのです。

 「こんな仕事ホイホイと受けるんじゃなかった」




 謀反人の義兄として、守時に対する幕府内の風当たりは強烈なものでした。




 守時は疎外され、足利との密通を疑われたり、根拠なき誹謗中傷にますます苦しむことになったのです。




 1333年、ついに新田義貞が倒幕の兵をあげます。

 連戦連勝して意気上がる新田軍は一気に鎌倉に向かいました。




 守時は、自ら捨て石となって戦場に赴き、やけくそになって敵兵を斬りまくりました。

 そして、自分の腹を十字に引き裂いて、切腹して果てたのでした。




 有名無実化した鎌倉幕府の執権。

 地位は高くとも、責任だけ大きくとらされた最期ですね。




 こうなることは最初から読めなかったのでしょうか。

 だから執権のなり手がいなかったのですね。




 社会的地位に目がくらんで、自滅に追い込まれたとも考えられます。




 その背景には、やはり人間を上下関係でとらえようとする差別心が横たわっています。




 彼も根本的にその差別心から解放され、重税に苦しむ一般民衆と時代の流れを的確に把握することができていれば、どのような人生になっていたでしょうか。




少なくとも、30代での自殺はなかったのではないでしょうか。