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~「追いつけ、追い越せ」 「私が勤めていた○○高校」~



 口ぐせのように何度も聞かされた言葉です。僕が高校1年生のときの教科担当の先生のお一人でした。


 授業は上手とは言えませんが、結構楽しくて人気もありました。彼は前任校である○○高校から、僕たちが在学していた第一高校(仮称)に赴任してきたのです。


 つまり、君たちの多くは第2、第3希望として入学してきたので第1希望の学校の生徒より学力が劣る。だから 「追いつけ、追い越せ」 という言葉の連発になったわけですね。


 叱咤激励のつもりでいたのでしょう。ある意味では尊敬もできる先生だったので、よし、がんばるぞ。実力を伸ばすぞ。3年後をめざして好スタートを切ったかに見えました。


 しかし、当初から何か引っかかるものも感じていました。本人には全く悪気はなかったと思います。結論をいえば、結果的に学歴差別になっていたのだと思います。


 今となっては、上から目線で僕たち生徒を見下していたと考えられます。それは、次の言葉の連発に象徴的に表れています。


 「私が勤めていた○○高校の生徒たちは・・・」 ○○高校は、愛知県の人なら多くの人が知っている大学受験の名門校です。要するに見習えということです。


 そして、その難関校から来た先生に習うのだから自信をもって学習せよと言いたかったのです。


 それから数か月後、1年もたたないうちに彼は病気で亡くなってしまいました。突然のことでびっくりしました。


 でも、冷静に考えれば、学歴差別をしていたのは僕自身で、自分で自分を差別していたのだと思います。


 歴史上の人物で、この学歴差別をやって身を亡ぼすきっかけを作った人が平安時代末期にいました。学問をすることで世の中を良くしたいと考えていた藤原頼長です。


 学業が極めて優秀で、左大臣や太政大臣にまでなりました。しかし、人に対して厳しすぎで、妥協を知らない性格の持ち主でもありました。


 そのため人望が薄く、多くの中下級貴族や寺社とも衝突を繰り返すことが多くありました。背景の一つに、人の上下関係を重視する儒教の論理がありました。


 学問料という名の朝廷からの奨学金が与えられる試験に合格できなかった受験者に対して、もう学問をあきらめなさいという内容の手紙を出しています。


 当事者だけでなく、他の公卿からも反発を受けることになりました。源氏の棟梁として有名な源義朝を、自分に仕えさせようと誘いましたがあっさりと断られてもいます。


 頼長自身が仕えていた人物は崇徳上皇です。それ以外の人はみんな自分より下だと思っていたのでしょうか。


 1156年、日本史上有名な保元の乱がおこります。この戦いでは弓の名手として名高い源為朝が味方になっていました。


 「夜討ちが良いかと思います」 という為朝の進言に対して、頼長はあっさりと却下します。 


 「夜討ちなどという卑怯なことはできぬ」 これでは勝利が遠のきますね。


 敵には武勇の誉れ高い源義朝や平清盛がいるからです。案の定、清盛が夜討ちをかけてきました。この戦いで頼長はあっけなく敗死してしまいました。


 人望のなさから義朝を味方にできず、為朝の作戦も生かすことができませんでした。


 僕は自分を差別して悶々たる高校生活を送ることになりました。頼長は差別により味方を失い、保元の乱で痛い目にあいました。


 どちらも差別をする側が不幸になった例として考えられます。残念ながら似ているところがありますね。

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~第1、第2希望校だった高校の教科書~



 当時は違いましたが、今は逆転しました。母校の高校に心から感謝します。


 自分自身の性格や学力実態に最も合った適切な進路であり、現在も生活や仕事で生かされていることがいくつもあります。 
 

 15歳当時の僕はそうではありませんでした。進学した第一高校(仮称)は僕の第3希望だったからです。


 結論を先に言えば、この15歳の僕は学歴差別の意識から解放されていなかったために、悶々とした高校3年間を送ることになってしまっていたのでした。


 同じ高校に通う僕の友人2人は第1希望として入ってきたので結構伸び伸びしていました。しかし、学校全体としては第2希望、第3希望として挫折感を抱きながら入学してきた生徒のほうが圧倒的多数派でした。


 だから劣等感を持っている生徒が多く、僕もその中の一人でした。今から思えばこれも貴重な体験でしょう。


 なぜなら15歳の挫折を味わった人たちの気持ちがわかり、その苦しい立場に立って物事を考えることができるようになったからです。


 名古屋には大きな書店がいくつもあります。僕も本が好きだったので、時々お気に入りの書店に行きました。


 その中の1つの店内である風景に気が付きました。高校の教科書を何種類も販売するコーナーがあったのです。


 ご丁寧にもこれはA高校、これはB高校といった具合に使用している高校名を明示していたのです。


 現代国語は特に内容の違いが大きく、僕は気が付いたら当時の難関校と呼ばれていた高校のものを数冊買ってしまっていたのです。


 これも差別意識がなせる業ですね。こんなことで学力が伸びれば誰も苦労はしません。大切なことは他校との比較ではありません。


 自分を受け入れてくれた学校や先生を信頼して一生懸命努力すべきでした。結局時間とお金が無駄になったことで決着しました。


 学歴差別とは言い切れませんが、これに近い差別意識のおかげで生涯深酒に走った世界史上の人物がドイツにいます。名前はヨハン・ベートーヴェン。


 かの有名な大作曲家ベートーヴェンのお父さんですね。酒に酔って帰宅し、寝ている子どもをたたき起こして強制的にピアノのスパルタ教育をしたことで知られています。


 ヨハンが強烈に意識していたのはモーツアルトです。評判と富のためには手段を選びません。次々に少年ベートーヴェンを苦しませました。


 自分は宮廷テノール歌手でしたが、大成することはありませんでした。このストレスが深酒に走った原因ではないでしょうか。


 だから、「大音楽家の父」 という名声を目指したのでしょう。幸いにも、少年ベートーヴェンが後に大作曲家として世界的な存在になることは、広く皆さんがご存知の通りです。


 世界史上、あまり多く語られることはありませんが、マリアという母親の存在がとても大きかったのだと思います。


 「お母さんのために立派な音楽家になろう」 彼のこの言葉が何よりの証拠ですね。


 父のヨハンは、名声という物差しで、当時の音楽家たちを差別的な目線で見ていたのでしょう。有名にならなければ 「だめな人生」  だと考えていたようです。


 僕の学歴差別意識も、学力という物差しで、有名な難関校でなければならないという考え方でした。似ていますね。


 共通点は他人との比較です。自分と他人を比較しているうちはなかなか幸福にはなれません。


 自分が本当にやりたいことは何か。どんな生き方をしたいのか。自分自身の物差しで生きていくことが大切なのではないでしょうか。



~聞きもしないのに 「おかげさまでS大に合格」~


 僕が高校2年生の時だったでしょうか。全校集会の話はほとんど忘れているのに、数少なく覚えている一言があります。


 「おかげさまでS大に合格しましたけれども・・・」 


 S大学というのはいわゆる受験の難関校の一つです。当時の同級生や同学年の生徒の中で、ここに合格できる学力のありそうな人は極めて少数でした。


 もちろん、僕も問題外でした。話をしていたのは田辺さん(仮名)という第一高校(仮名)の管理職候補の先生でした。


 僕の母校はたまたま進学希望者が多かったからでしょうか。学力向上を目指して生徒を奮い立たせる教育的配慮のつもりだったのでしょう。


 田辺さんはご自分の受験勉強体験を熱心に語っていました。しかし、その話を聞いていた生徒の一人として、僕は何か違和感を感じたのです。


上から目線の姿勢ですね。直接言いはしませんでしたが 「お前たちはほとんどS大クラスの大学には入れないだろう」 と言っているように聞こえてしまいました。


 彼は僕たちが卒業した後に教頭に昇進しました。きっとしっかりした教員だったのだと思います。でも、誰も聞きもしないあの話が、結局自慢話にしか聞こえなかったのは僕だけだったのでしょうか。


 今から思えばあれは学歴差別でしょう。そして今はっきりと言えることは、田辺さんだけではないということです。


 当時の自分自身に目を向ければ、僕も学歴差別者だったということが今頃になって気付くことになったのです。


 どのような受験勉強をしたかということが最も大切なことなのに全部忘れてしまいました。覚えているのはあの一言だけです。


 このことは僕自身が差別をしていた何よりの証拠です。もっと早くこの意識から解放されていれば、心豊かな青春時代を送ることができたのではないかと思います。


 大切なことはどこの学校を出たということではなく、今目の前で何ができるか、何をしようとしているのかということです。


 日本史上には学歴差別する側に立てる立場にありながら、そこから解放されて自由に生きたのではないかと考えられる人物がいます。


 明治の文豪夏目漱石です。彼は東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、ロンドンに留学しています。1907年には東京大学教授に内定しました。


 ところが漱石はこれを辞退しています。1911年、当時の文部省から文学博士の学位を贈られましたがこれも辞退。

 
 さらに雑誌「太陽」(博文館発行)が行った人気投票で、漱石の作品が一等になったということで贈られた金杯も辞退して返却。この一連の行動の背景には彼の信念が感じられます。


 国家権力や大衆の人気投票などが 「人間そのものの価値」 までも決めつけるような姿勢で、相手を格付けするような態度は許さない。


 多くの人々からうらやましがられるような好条件を次々に一蹴する姿は痛快、拍手喝采ですね。


 漱石は被差別の立場に立たされる人の気持ちが理解できる人だったのかなと思います。それは彼自身が少年時代に被差別体験をしているからです。


 まず、もともと望まれて生まれてきてはいません。8人兄弟の末っ子。挙句の果てに里子に出されてしまいました。


 そして赤ん坊だったので夜は 「がらくた」 と一緒に小さなザルの中に入れられて店の前に並べられていたのです。里親になっていた夫婦も離婚。


 そしてまた別の里子へ。だから、社会的地位や学歴から解放されて、本当の自分を大切にした自由に生きる道を選ぶことができたのではないでしょうか。
~キセル乗車を学校名から許した~


 僕が通っていた中学校は、当時の自宅からバスを乗り継いで1時間。電車とバスを乗り継ぐルートだと1時間半もかかってしまいました。


普段は前者で通学していましたが、後者の方は遠回りになるけれど名古屋の繁華街を通るため、たまに利用することがありました。


同窓生の松田さん(仮名)は比較的自宅が僕と近い生徒の一人です。通学ルートが似ているため、よく一緒にバスや電車に乗りました。

 二人とも自宅から最寄りの駅は特急電車が止まらない駅でした。ある日のことです。名古屋の中心駅から一緒に帰宅するとき、僕たちは事件を起こしてしまいました。


 意図的に特急電車乗ってしまったのです。理由は単純明快。窓からの眺めが面白いからです。


 しかし、これでは二人とも切符を買ってある降りるべき駅に行けません。1駅だけ特急に乗って降り、その駅からまた1駅特急で戻り、各駅停車に乗り換えれば降りるべき駅に行けるわけです。


 インチキですね。キセル乗車です。鉄道会社に対する明らかな契約違反であり、中学生としては非行にあたります。


 悪いことをしたので、早速バチが当たりました。帰りの特急の中で車掌さんが、乗車券を拝見しに来たのです。二人とも顔面蒼白です。

 とっさに松田さんが 「切符をなくしたと言おう」 と言ってきたので僕もどぎまぎしながら同調したのです。


 こんな幼稚なウソはばれるに決まっていますね。案の定、二人とも事務室のような所へ連行されました。


 もうこりごりです。監禁されて根掘り葉掘り、執拗な尋問を長々と受けました。それもそのはず、二人とも頑強にウソをつき通したからです。


 学校や両親に電話連絡されることを覚悟しました。そのとき、意外なことが起こりました。


 「君たちは第一中学校(仮名)だから信じてあげよう。以後気を付けるように」 


 これは学歴差別ではないでしょうか。最もその前に、非行少年が何を偉そうに言っているのだと言われそうですね。穴があったら入りたい気分でした。


 世界の音楽史上の偉人で、上から目線で学歴差別とよく似た差別意識をもって人に接したために不幸になったと考えられる人物がいます。


 名をフリードリヒ・ヴィークといいます。有名な大作曲家シューマンの妻の父親です。シューマンの妻はクララと言い、当時の世界的なピアニストでした。


 フリードリヒ・ヴィークは、ドイツのライプチヒで一番の音楽教師と呼ばれました。彼の練習曲集は今でも出版され、時代も国境も超えた優れたものになっています。


 しかし、彼のこの言葉はどうでしょう。


 「私が自分の人生の10年を犠牲にして、クララを一流のピアニストに育てたのは、あんなシューマンのような貧乏音楽家にくれてやるためではない。ピストルで撃ち殺してやる」


 どうやら娘を大金持ちの貴族と結婚させたかったようです。これは明らかに差別者の言葉ですね。頑強に 若い二人の結婚に反対し続け、ついに裁判になりました。


 結果は誰が見ても明らかですね。父親の負けです。


 結婚式にも出席しなかったフリードリヒ・ヴィークは、妻から見放され、娘からも見放され、そしてその夫からも見放される結果になったのです。


 子供は自分の所有物ではありません。差別はする側が不幸になるということを学べる典型的な事例ではないでしょうか。


 差別により鉄道会社の車掌さんから罪を見逃してもらった中学生時代の僕。


 そのときは外見上は事なきを得ましたが、心の中の悔いは数十年たった今でも消えません。この苦い体験を、現在および将来の生き方にどう生かすか。問われて続けているのは僕自身です。