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3 徳川家光 (1604 ~ 1651)3uwl1b






~両親からの愛情に飢え心労に振り回された3代将軍~






 徳川家光が、自殺未遂をしたことがあるのをご存知でしょうか。

 9か月にわたる引き籠りも経験しました。




 男色趣味があり「男色将軍」 と呼ばれたこともありました。

 3代将軍家光といえば、参勤交代や鎖国で有名です。




 幕藩体制をゆるぎなきものに整えた「強力な将軍」 というイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。



 しかし、彼の寿命は祖父の家康や父の秀忠よりも短いのです。




 この背景には、いったい何があるのでしょうか。




 彼が生まれた時には、すでに江戸幕府が成立していました。

 「生まれながらの将軍」 というわけですね。




 2年後に、弟の国松が生まれます。

 しかし、家光は勉強が苦手だったのです。




 何かにつけて弟と比較され、両親や家臣までもが兄の方が劣っている、ととらえていました。

 この劣等感は、生涯にわたって家光を苦しめることになります。




 「自分は将軍になれない」

 絶望して、剣で自殺をしようとしました。




 これを止めたのは、乳母の春日局(かすがのつぼね) です。

 彼女は駿府まで足を運び大御所家康に直訴して、家光の3代将軍就任を指名させました。




 1623年、20歳のときに家光は京都の二条城で3代将軍になりました。




 しかし、まだ父の秀忠が健在だったので、自分の思うようになるのは父の死後、1632年以後になります。




 1625年、左大臣で関白の娘、鷹司孝子(たかつかさたかこ) と結婚します。

 ところが家光は、この新妻に見向きもしませんでした。




 即座に、江戸城の本丸から中の丸に遠ざけています。

 男色趣味ですね。




 女性に興味がないのです。

 近侍や小姓を相手に、愛欲にふけりました。




 家光が手をつけた小姓の中でも、最も寵愛されたのが堀田正盛です。

 次に酒井重澄(しげずみ) でした。




 ただし、重澄は後に家光から所領を没収された上で、自刃で果てるという悲惨な最期を遂げています。



 理由は、子どもを作ってはいけないという家光の命令に背き、妻だけでなく妾にも子どもを産ませていた事実が発覚したからです。




 家光は嫉妬に怒り、このような厳しい処分を下したのです。

 権力とはいったい何のためにあるのでしょうか、考えさせられますね。




 女装趣味もありました。

 幼少のころから、合わせ鏡を見ては化粧をしていました。




 家臣たちから「バカ殿」 という陰口までささやかれたほどです。

 さすがに乳母の春日局も心配し、次々に絶世の美女を家光に引き合わせて努力しました。




 その甲斐あってか、やっとのことで成果が出ました。

 長男の家綱が誕生しました。




 後の4代将軍ですね。

 34歳のときには「うつ病」 にもかかっています。




 このときは、9か月にもわたって引き籠り、人前に出ようとしませんでした。

 1637年には歴史上有名な、島原・天草一揆が九州で発生します。




 これは相当こたえたのではないでしょうか。

 家光は家康や秀忠とちがって、戦場に出た経験がありません。




 この大規模な一揆を抑えられなければ、苦労してなった将軍の地位も危うくなるからです。




 忠長という名で元服していた弟の国松は、すでに自殺に追い込んでありましたが、心労に心労を重ねたことは容易に想像できます。




 いてもたってもいられなかったのではないでしょうか。

 1651年、家光は48歳で死亡しました。




 死因は「徳川実記」 によると、「痞(ひ)の病」 と書かれています。

 内臓に生ずるしこりのことです。





 僕は、これは度重なるストレスからくる癌(がん) ではないかと考えています。


 いずれにせよ、幼少のときから生涯にわたって、心労から解放されていません。





 将軍という地位にこだわりすぎさえしなければ、もっと解放された私生活が送れたのではないでしょうか。





 そしてもっと健康で、もっと長生きをすることも可能だった、と思うのは僕だけでしょうか。
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2 徳川忠長 (1606 ~ 1633)3uwl1b






~兄弟差別をして自ら不幸を招いた将軍の弟~






 鎖国で有名な、3代将軍徳川家光の弟です。




 少年時代から聡明で、元服後は駿河の国を与えられ、遠江、甲斐、信濃も支配する55万石の大大名になりました。




 朝廷からも大納言の地位に任じられ、「駿河大納言」 とまで呼ばれるようになりました。




 しかし、御三家をもしのぐこの大城主は、わずか27歳の若さで自殺に追い込まれる悲劇で一生を終えています。




 この優秀な弟に、いったい何があったのでしょうか。




 1603年、忠長は2代将軍徳川秀忠の三男として生まれました。

 少年時代の名は、国松といいます。




 母親は江(ごう) で、2歳年上の兄家光と同母でした。




 両親から見ても、国松は明らかに家光よりも利発で、次の将軍にふさわしいと考えられていました。




 家臣たちも同じ考えで、事あるごとにこのことを口にしたのでしょう。

 しだいに3代将軍は忠長だという風潮が、江戸城に広く行き渡るようになったのです。




 だから、国松も自分は当然兄より上、と考えました。

 兄弟差別ですね。




 家光は乳母の春日局(かすがのつぼね) がつきっきりで、実母の江には育児をすることが許されていませんでした。




 それに比べて国松は、母親が直接育てているので、愛情は比較にならないほど深いものになっていきました。




 実母と乳母の仲は良くなく、両者の権力争いが背景にあったと考えられます。

 しかし、この争いは祖父の鶴の一声で決着がつきました。




 大御所、徳川家康です。




 静岡の駿府城に引退していた家康に、春日局が直訴したのです。

 家康の決定となれば、だれも逆らうことはできませんね。




 その言葉通り、3代将軍には家光が就任することになります。

 それでも、元服して忠長と名のった国松には、駿河という重要な領地を与えられました。




 江戸からも近い交通の要地です。

 領地も広大で、家康が最後に居住していた城でもあります。




 破格の待遇といえるでしょう。




 しかし、「自分の方が兄より優れている」 という上から目線の意識は、なかなかぬけませんでした。




 不満がうっ積していったのです。

 権力にこだわり、権力への欲望が十分に満たされません。




 異常な行動が目につくようになっていきました。

 少しでも気に入らないことがあると、周囲の人々にあたり散らすことが多くなりました。




 殺生禁止の御領地で、狩もやりました。

 まるで、自分は特別な権力をもっているからいいのだ、と言わんばかりですね。




 この行動を諌めた家臣は、忠長から斬りつけられてしまいました。

 これでは、ほかの家臣まで萎縮してしまいます。




 正しい言動が通らなくなりました。




 理不尽な仕打ちが繰り返されたので、家臣たちは慎重に行動するようになりましたが、やがて幕府の耳に届くことになりました。




 いくら将軍の弟といっても、これでは兄も黙ってはいないでしょう。

 忠長は、甲斐に蟄居を命じられました。




 その後は、高崎城に幽閉の身となりました。

 最後は家光打倒の怪文書を回したという罪で、自害に追い込まれたのでした。




 まるで坂を転げ落ちるような、あまりにも悲しい結末です。

 この悲劇の背景に横たわっているものがあります。




 まず、忠長は生涯にわたって兄の家光を見下し続けました。

 差別意識から、最後まで解放されなかったと考えられます。




 次に、嫡男を乳母が育て、実母がないがしろにされるという制度です。 

 差別者同士の権力争いが招いた悲劇でもあります。




 結局、差別は「する側が不幸になる」 という典型的な事例になってしまったのではないでしょうか。




 そして、家臣の言うことに耳を貸さなかったことも、火に油を注ぎました。




 忠長の人生のどこかで方針転換をして、この悲劇を防ぐ方法を見つけることはできなかったのでしょうか。
1 徳川秀忠 (1579 ~ 1632)3uwl1b






~権力を握っても家族からの心労に振り回された2代将軍~






 父親は徳川家康。

 子は徳川家光。




 親も子もとても目立つので、注目されることが比較的少ない人物です。




 武家諸法度や、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと) を制定し、父家康の路線を引き継ぎました。




 優れた行政手腕で、江戸幕府の権力を確かなものにした2代目です。




 恵まれた環境と、律儀で堅実な印象が持たれますが、彼は思わぬところで生涯にわたって次々に心労を重ねました。




 この優秀な2代将軍に、いったい何があったのでしょうか。




 1579年、秀忠は家康の三男として、浜松で生まれました。

 母親は側室の一人、お愛の方です。




 まだ信長や秀吉が健在で、家康は三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)の2か国の大名でした。



 長男の信康は、秀忠が生まれた年に、信長の命令で切腹に追い込まれています。




 信長の娘でもある妻から、武田氏との内通を疑われたためでした。

 次男の秀康は、豊臣秀吉のもとへ人質として出されています。




 後に結城秀康と名のり、福井藩の祖になった人物です。

 秀忠が三男で将軍になったのは、このような事情があったからです。




 もっとも、家康にとっては、父親の言うことをよく聞く三男で、政治がやりやすかったともいわれています。



 母であるお愛の方とは、秀忠がわずか10歳のとき死別してしまいました。




 それでも秀忠は父親を越え、父親に認められようと意気込みますが、合戦で武功はなかなかあげられずに家康から叱責される場面もありました。




 有名なできごとは、関ヶ原の戦いのときです。

 3万8000人もの大軍を率いて、中山道から関ヶ原へ参戦する予定でした。




 ところが、途中の信州上田でわずか2000人の真田昌之の前に大敗し、関ヶ原に到着したときにはすでに合戦が終了していたのです。




 攻めなくともよい上田城を無理に攻めて、何日も足止めをさせられたあげく、落とすことができなかったのです。



 父の家康が怒ったことは言うまでもありません。




 遅参した秀忠は、3日間面会してもらえませんでした。

 大阪冬の陣のときも失敗しました。




 今度こそと意気込んで江戸城を出陣しましたが、急ぎすぎたのです。

 関ヶ原のときとは逆に強行軍になり、秀忠軍の将兵たちは疲労困憊(こんぱい) を重ねました。




 戦場では過労により、とても戦える状態ではなかったといいます。

 これでは父からも部下からも、合戦においては認められませんね。




 妻は江(ごう) といいます。

 信長の姪で、淀殿の妹にあたります。




 プライドが高く嫉妬深いので、秀忠は側室をもつことができませんでした。

 嫡男の家光は秀忠を嫌い、祖父の家康を尊敬していました。




 行いがよくないということで、弟の松平忠輝を改易追放、家光の弟である忠長は蟄居を命じられて、後に切腹に追いこまれました。




 心労だらけですね。




 1611年には、江戸城の女中だった静との間に四男が生まれます。

 しかし、妻の江を恐れて江戸城外での出産となりました。




 後に会津藩主になった保科正之です。

 結局秀忠が正之に会えたのは、江が亡くなった後のことでした。




 恐妻家だったのですね。




 長女の千姫は、わずか7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、19歳で大坂の陣に遭わせてしまうことになりました。




 次女珠姫は、24歳で病死。

 三女勝姫は、嫁いだ夫が乱心のため、江戸にもどっています。




 四女初姫も若くして病死し、五女和子は後水尾天皇に入内しましたが、天皇が幕府を嫌い板挟みになって苦労しています。




 何だかちっとも楽しくなさそうですね。




 将軍という権力は確かなものになりましたが、家族との関係では悲しいことばかりです。




 肉親に対しては、どこかで思い切った意識改革をすることができなかったのでしょうか。
10 淀 殿 (1569 ~ 1615)3uwl1b






~高いプライドの故に自殺に追い込まれた関白の妻~






 有名な豊臣秀吉の側室です。

 その美貌からでしょうか、秀吉は彼女にぞっこんだったといわれています。




 織田信長の姪という、戦国時代では誇り高き血筋でもありました。

 天下統一を果たした秀吉とともに、大坂城で強大な権力を握っています。




 秀吉の後継者も産み、物質的には華やかな生活を送っていました。

 ところが、淀は生涯で3度の落城を経験し、最後は息子とともに自殺で命を落としました。




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 1569年、彼女は北近江(滋賀県北部) の戦国大名、浅井長政の長女として生まれました。

 母親は、お市の方です。




 戦国一の美貌と噂される女性で、織田信長の妹でした。

 少女時代は茶々といい、彼女から見れば、信長は伯父にあたりました。




 だから、小さい時からかなりのプライドの持ち主だったと考えられます。




 兄もいて妹も二人生まれ、本拠地の小谷城で姫君として、それなりの恵まれた生活をしていたのではないでしょうか。




 茶々が4歳のときです。

 不幸が突然訪れました。




 天下布武をねらう信長は、浅井長政と敵対し、小谷城が落城したのです。

 母と三人の娘たちの命は助けられましたが、父長政は自害。




 兄の嫡男万福丸は、串刺しで殺されました。

 燃え続ける居城の姿を見て、言葉に尽くせない悲しみを早くも体験することになりました。




 母のお市の方は、その後信長の重臣、柴田勝家と再婚して、娘たちとともに越前北の庄城に落ち着いたかに見えました。




 しかし、ここも落城です。




 羽柴秀吉ですね。

 信長亡き後の天下統一への主導権をめぐって、秀吉に攻められました。




 お市の方は絶望し、夫の勝家と心中しました。




 母を失った茶々は、泣いても泣ききれないこの悔しさを、生涯忘れることはなかったことでしょう。




 このとき、17歳の多感な少女です。

 父も母も失い、秀吉のもとに保護されることになりました。




 敵のはずの秀吉は、この美しい茶々を見そめました。

 猛烈にアタックしたのです。




 普通に考えれば、両親の死に直接かかわった男など、憎いだけでしょう。

 ましてや、低い身分からのし上がった秀吉など、上から目線で見下していたと思います。




 ところが、結局茶々は、秀吉の側室になることを受け入れたのです。

 権力ではないでしょうか。




 秀吉が天下人にならなければ、この結婚はあったでしょうか。

 疑問です。




 彼女には子どもを産み育てる城が与えられました。

 淀城といいます。




 だから、淀殿とか淀の方とか呼ばれるようになりました。

 1589年、淀は23歳で鶴松を出産しますが、3歳で病死してしまいました。




 その2年後に、待望の男子が再び生まれます。

 この子が、有名な豊臣秀頼ですね。




 ただし、この出産には古くから疑問が持たれていることをご存知でしょうか。

 「秀頼は秀吉の子ではない」 という説です。




 正室の北の政所だけでなく、秀吉には側室が16人もいました。

 ところが、淀以外は誰も子どもに恵まれなかったのです。




 好色な秀吉と、若くて健康なたくさんの女性たち。

 ほかに誰も妊娠しないはずがない、というのです。




 父親は側近の大野治長ではないか、という意見も多くあります。

 真相は本人にしかわかりませんが、プライドの高い淀のことです。




 絶対にない、とは言い切れないでしょう。

 秀吉亡きあとは、一時的に実質上の最高権力者になりました。




 しかし、ここまで。

 実力をつけた徳川家康に、頭を下げられなかったのですね。




 3回目の落城です。

 淀の夢は、燃え盛る大坂城の炎とともに消えました。




 生涯高いプライドから解放されなかった、誇り高き女性の悲しい末路です。




 一般民衆の視点から見れば、大阪の町の人々にとっても大迷惑だったことでしょう。




 庶民とともに、楽しく有意義に生きる道はなかったのでしょうか。